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○ ○ ○
揺れるバスの中で白坂が言った。
「え、あのバス停に集合して行くって、知らなかったの?」
対して沢が言い返す。
「そりゃ知らねぇよ。だいいち、学会に行くのは俺一人だと思ってたし、お前もなんにも言ってこねぇんだもん」
「だって、梅田先生があなたにも伝えておくっていうから。元々は梅田先生が言ったのよ、あの駅のバスターミナルで落ち合って、二人で行くのがいいだろうって。あと、お前じゃないって何度も言わせないで」
「あー、はいはい。つーかあの女……どこまでテキトーなんだ。待ち合わせの話なんて一切聞いてないし、そもそも俺は学会のパンフレット渡されただけで、説明らしい説明は何もされてないんだぞ」
それを聞いた白坂はこめかみに手を当ててうなだれる。「そっちのグループって、そんな雑な情報共有でどうやって回ってるの……河村先輩も昼間に研究室にいた試しがないし」という感想は至極もっともなはずだが、しかし僕や沢にとっては今更だ。
「だいたいよぉ。学会ってーのは、成果の出てるやつの行くところだろー?」
「当たり前じゃない。だから私は、あなたも行くって聞いたときは、すごく驚いたわよ」
「んだとてめっ……」
嫌味を嫌味で即座に返された沢は顔を歪ませ、白坂を睨む。けれども白坂はそんな視線など意に介した様子もなく、呆れた表情で前を向いて座っていた。
揺れる座席。二人は隣同士。中央に開いた絶妙な隙間が、二人の心の溝そのもの。僕は身を縮める想いで居心地の悪い空気に耐える。
険悪な沈黙の中では予想通り、沢がリュックの口を開けて僕に話しかけてきた。
「シータお前、こいつが来ること知ってたか?」
まあ、僕は知っていたよ。白坂ともこの学会の話は、ときどきしていたからね。
すると白坂は、その様子を見て目を丸くする。
「ちょっとあなた、その子、連れて来ちゃったの!?」
「んだよ、いいだろー別に。シータにはシータの仕事があんだよ」
白坂はまたしても顔を手で覆ってうなだれたが、もう何も言わなかった。
二人はそれ以降、一度も言葉を交わさなかった。目的地へ向かって曲がりくねった峠を右へ左へ進むバスの中、なんでもないような顔をしながらも自分の肩肘がわずかでも相手に触れることのないよう、互いに細心の注意を払っているように、僕には見えた。
やがて山々の間から現れた風光明媚な街並みが車窓に映る。僕はその素晴らしさに思わずシグナルランプを赤から黄色、緑、青とグラデーションで変化させて感情の昂りを表現した。
学会の会場となるのは、その街の中心から少し離れた位置に構えるホテルのホールだった。既に数多くの人が集まっている。若い学生から年配の教授たち、その他にも企業の研究者など、参加者は学術機関の出身者だけに留まらない。
身なりに関しても、サンダルやTシャツのようなラフな私服から、キッチリとしたスーツを着こなす者まで様々で、ドレスコードというものはほぼないに等しい。こうした雰囲気は研究分野が違えば大きく変わることもあるし、個人の感覚にも左右される。実際、会場では、更衣室でスーツに着替えた白坂と、観光客のような私服しか持ち合わせていない沢の間で、互いの感性に文句を飛ばし合うという小競り合いもあった。
曰く「研究成果を発表する場でそんな格好ってどういうことよ!」
曰く「学術を研鑽する場に服装なんか関係ねーだろ!」
二人はより険悪なムードを構築しながら受付を済ませる。出身大学を告げて参加証を受け取り、午前の講演を聞くために講堂内の席に着いた。
学会では主に、博士課程の学生から教授まで、直近の研究で進展のあった者が、その内容を報告する。講演中、沢は興味の有無が激しく、目を輝かせていることもあればうたた寝していたこともあったが、一方の白坂は始終一定のペースでメモを取りながら聞いていた。
そして二人の本番は午後からだ。今回二人が登録しているのは、ポスター発表の部門である。ポスターというのはA0の紙一枚に、自分の研究についての導入から実験内容、結果と結論までをまとめたものだ。それを壁や衝立に貼ってブースのように構え、尋ねてきた参加者に説明する。参加者の中のお偉い教授や来賓たちは、こうしたポスターを評価する仕事も兼ねており、出来が良ければ賞を授与されることもある。若い学生たちは、まずはこういった簡易な発表の部門から学会に参加し、その雰囲気に慣れ、他分野の知識を得ていくのだ。
ポスターの見学はどのタイミングでもできるため、会場は常に、雑然とした空気になりがちだ。僕もその空気に紛れて徘徊し、沢に言われた通りに会場内を撮影して回った。
そんなことをしていれば、当然、僕に気付く人も大勢いた。でも、きっと何かのデモンストレーションとでも思ったのだろう、不審がる人は一人もいなかった。
一通り探検して満足したので、僕は沢のところへ戻ることにする。参加者には外国人も多くいるので、英語の説明を要求されてあたふたしている姿でも眺めてやろう、なんて考えていた。
しかし期待外れなことに、沢のブースにいたのは日本人だ。まあ、あまりに閑古鳥が鳴いているのも心配になるので、それはそれでいいということにしておこう。二人は楽しそうに話をしている。その場を自然と盛り上げる沢のコミュニケーション能力だけはさすがと言わざるを得ない。どうやらどこかの企業の人のようで、その会話には聞き慣れた名前も登場していた。
「そうか、君は蓮川先生のところの」
「はい、そうなんですよ。まあまあ楽しくやらせてもらってます」
沢がそう答えると、正面に立つ恰幅の良い男性は、その口髭を震わせながらガハハと笑う。
「えっと……保志さん? は、蓮川先生と面識があるんですね」
「ああ、その通りだ。何を隠そう、私が蓮川先生の一番弟子だからね」
「へぇー、そうなんすか! 蓮川先生って、やっぱりすごい人なんですか?」
「もちろんだとも! 過去の業績は言わずもがな、この分野では相当な権威となって久しいね。君もここへ来ているくらいなら、先生の書いた論文を、いくつか読んだことがあるだろう?」
「ありますあります。確かに、名前は色んなところで見ますね。実は、蓮川先生ってあんまり研究室にいないんで、喋ったことは、ちょっとしかないんですけど」
「はっはっは。昔から放任主義ではあったが……まあしかし、今は純粋に忙しいのだろう。様々な役職を歴任しているから」
保志という男は、かつての師の活躍を、まるで自分のことのように喜び語った。その様子からは、彼が蓮川のことを心から尊敬してるのだと伺える。保志は蓮川の偉業について一通り話すと、髭に覆われた顎を撫でながら沢に尋ねた。
「とすると、今、君を実際に指導しているのは……伏屋くんかな?」
「いえ、俺は、伏屋先生とは別のグループで、俺が教えてもらってるのは、梅田って言う……」
「おぉ、おぉ、亜紀くんか。そうかそうか。いやあ、彼女は相当なやり手だ。では君も、なかなかに大変だろう」
「え、ええ、まあ……色々と……」
思わず目線を逸らした沢の笑顔は、このとき若干、歪んでいた。沢の脳裏には今、研究に関することも、そうでないことも、いっぱいいっぱい、いっぱい浮かんでいることだろう。僕はその様子を見て、心の中でクスリと笑う。
「あそこは良い研究室だと思う。君にも同じように思ってもらえると嬉しい限りだね。蓮川先生には、お身体と権力争いに十分お気をつけなさるよう、お伝え願う」
「はい。……え、権力争いってなんですか?」
「ん? まあ、あれだ。残念ながら学術界にも、派閥や徒党めいたものはあってね。どこそこが主催の学会には出ないとか、今のあの雑誌の論文審査員はどいつだから出しても通らないとか……ああ、いや、こんな話は君に聞かせるようなものじゃあないな。とにかく、蓮川先生はああいった性格だし、良くも悪くも優秀だから、敵もいる」
「敵……ですか」
「そう、乱暴に言ってしまえばね。そういった些事に絡め取られて、あの人の研究が滞ってしまうのは、ひいては人類の損失と言えるのだよ」
「人類っすか……なんか、壮大な話っすね」
保志から飛び出た言葉の大きさに、沢はポカンと口を開ける。しかしそれでも、保志はあくまで真面目な表情で沢に応えた。
「何を言っている。今や君も、その一端を担っているのだ。君の仕事がいつか、人類を救うかもしれないぞ」
「え、俺?」
「そうだ。どんな研究にも貴賎はない。一大プロジェクトも学生の卒業研究も、その秘めたる可能性の大小は誰にも測れない。だからこそ、これから君が知ること、追い求めること、広めること、役立てること……その全てに覚悟と責任と、そして楽しさがあるんだ」
「覚悟と責任と……楽しさ……」
沢は呟く。目の前の保志の口調に感化されたのか、珍しく真剣に。
すると保志は思わず「あっ」と口ずさみ、大仰な仕草で右手を自身の頭に回して小突いた。
「いや、いかんな。どうも最近、説教臭くなってしまって」
「いえ、そんなことは」
「長く居座って申し訳ない。そろそろ私は行くとしよう」
そう言いながら居住まいを正した保志は、そそくさと踵を返して背を向けた。
「では沢くん。人類の未来のために、是非、研究に励んでくれたまえ」
大きな破顔とともにかけられた保志の言葉に、沢の背筋が少しだけ伸びる。
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