第三章 旅の夜:ブルームーン 1

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○ ○ ○  陽が落ちて学会の時間が終わると、会場はそのままレセプションパーティーへと移行した。だいたいの学会にはこうした催しがつきもので、地元である主催側が準備をし、年度が変わり加わった新人や、遠方から来た参加者を労う意図が込められている。  ホールを開放的に用いての立食形式。眺めの良い窓際などに椅子が並べて設けられ、白いクロスのかかったテーブルには、豪勢な食事や華やかな花木が飾られている。  僕は最初、人目を気にしながら会場の隅の方を動いていたけれども、案外皆、料理や会話に夢中で僕のことなど気にしない。酒が入って酔っ払った人に踏み潰されないよう、それだけに配慮すれば問題ないと学習した。  各々が思い思いに人の輪を作っている。旧友や旧師と昔話に花を咲かせている人たち。研究内容について、学会中とはまた違うざっくばらんな意見を交わしている人たち。初対面同士でこれから親交を深めようとしている人たち。あちこちで様々な会話が飛び交って、さすがの僕の高性能な音声処理システムでも、その全てを解析することは難しい。それくらい賑やかだ。  しばらく動き回っていると沢を見つけた。早速、地元の大学出身で固まっている四、五人の会話に突撃している。明らかに初対面であるはずなのに、昔からの知り合いかのように軽々と話しかけ、あっという間にその輪に潜り込んでしまう。見れば、少しばかり顔が赤い。右手には飲みかけのワイングラス、左手には皿いっぱいの料理を持って、大口で笑い、飛び跳ね、おどけて、次々と話し場所を変えてゆく。様々に人の島を渡り歩き、果ては年配の教授陣が集まるところにまで挨拶に回る姿は、ある意味、楽しさに対してひたすら貪欲で彼らしいと思った。  一方、賑やかなホール中央から少し外れると、夜の温泉街を見下ろせる窓際に白坂がちょこんと座っていた。レセプションに際し私服に着替えて来た人も多いというのに、彼女は未だにスーツ姿で、膝を揃えて背筋を伸ばし、両手で小さなグラスを持って外を見ている。室内にはほとんど目を向けず、大きな窓に映る街の光が瞬くのに合わせて、そのグラスを一定のリズムで口へと運ぶ。まるでそうしていることが、自身の使命であるかのように。  僕はとりあえず、綺麗に揃った彼女の足の隣に停止した。きっと彼女は、僕に気づいたことだろう。けれども彼女が人前で僕に話しかけることはない。しばらく無言の時間が過ぎ、仕方がないので僕はまた、会場の様子を記録するためにその場を去った。  そんな調子で、パーティーは二時間ほど続いた。特に締めの言葉があるわけでもなく、皆、その場の流れでパラパラと会場から消えていき、ようやく御開きという雰囲気になっていた。料理もあらかた食べ尽くされ、隅の方に配置された椅子から順に少しずつ片付けられている。 「駅までお越しの方、次が最終バスになりまーす。あと十分で出発しまーす」  マイクを使った音声が会場に流れる。  ちょうどそのとき、ずっと姿を見ていなかった沢が僕の前に現れて腰を落とした。 「お、いたいた。シータ、お役目ご苦労さん」  いいえ、それほどでも。 「バスで駅まで行こうと思うんだ。その方が便利そうだし。行こうぜ、シータ」  ああ……えっと……。  沢が僕へと手を伸ばす。けれども瞬間、僕はその手をかいくぐってかわし、駆動し始めた。 「あれ? おい……シータぁ」  沢は不思議そうに僕を見送りながら立ち上がったが、すぐに僕の意図を理解したようだ。僕が停止した窓際では、白坂が苦しそうに椅子に右手を添えて俯いていた。 「お前……何してんだよ」  たぶん、酔い潰れてる。  白坂は沢に気づいただろうか。しかしどちらにせよ、見上げることも難しいほど気分が優れないらしい。 「……ん……ぅ……」 「もしかして、ずっとここで飲んでたのか? ってうわ、お前、これ焼酎じゃん」  沢は、白坂の左手が辛うじて保持しているグラスを取り上げると、その匂いに顔を顰めた。 「まさか、一人で黙々とこれ飲んでた?」  一応、意識ははっきりしているらしく、白坂は、ゆっくりと首を横に振ることで否定を返す。 「んじゃ、誰かに飲まされたのか?」  白坂はまた首を横に振る。 「はぁ? ……じゃあ、何だよ。一人で飲んでたけど、ずっとこれを飲んでたわけじゃない、とかか?」  すると白坂は、しばらくの間、動きを見せずに固まっていたが、やがて緩慢な仕草で頷いた。  それを目にした沢は、呆れたとでも言いたげに小さな溜息を零す。 「えっと……つまり、なんだ。一人で誰かと喋るわけでもなく、ただただひたすら、会場にあるいろんな酒飲んでたのか。始まってからさっきまで? そりゃ潰れるわお前……」 「うっ……ん……」  沢の憶測は概ね当たりだろう。高性能なカメラを持つ僕にだけはわかるが、白坂のグラスには、直前に飲んだ焼酎だけでなくワインやウイスキーなど様々な液体の痕跡がわずかにある。  白坂は反論しようとしたのだろうか。それとも何か、別のことを言おうとしたのか。けれども結局は言葉にならない。少し待っても反応がないとわかると、沢は「まあ、そんな調子じゃあ喋れねーか」と呟いて白坂の横に屈んだ。 「俺、バス乗るけど、どうする? 俺は初めから駅前でビジネスホテルにでも泊まろうと思ってたし、そもそもこの辺りに宿とか取ってないんだけど……いや、よく考えたら俺、お前の宿泊先も知らねぇし、担いでバスに乗せるわけにも……」  あ、その件なんだけど、沢……。  僕が沢の足を小突いて知らせようとした直後、ホテルマンの張った声が会場に通った。 「乗られる方、もういませんねー。では、バス出まーす」 「……え?」
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