第三章 旅の夜:ブルームーン 1

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○ ○ ○  結局、バスには乗れなかった。閉まる会場にそのまま残るわけにもいかず、それから二人と僕はホテルを出た。動けない白坂に沢が肩を貸し、クロークに立ち寄って二人分の荷物を受け取り外へ。時間も時間だし、温泉街というのはそもそも夜遅くまで騒がしい場所でもない。通りに明かりは灯されていても、辺りは既に静まりつつあった。 「ったくよ。上手な酒の飲み方も、大人には必要なスキルじゃねぇのかよ!」  沢は今、白坂を背負って歩いている。相手に捕まる力がないときのおんぶというものは結構な重労働だ。さらにお腹側には沢自身のリュック、右手は白坂のキャリーバッグを引いている。 「お前、いつも自分は大人だって言ってるじゃねーか。二十歳越えたら、もう十分大人なんだろ。なんであんな、飲み会ってほどでもない、緩いパーティーで、潰れてん、だよ!」  口うるさく小言を言うもののだんだんと息が切れている。僕は申し訳ない気持ちになりながらも、そんな沢の横を並走することしかできない。ああ、申し訳ない。申し訳ない。 「大学四年、にもなって、酒が初めて、なんてことは、ねーだろ。研究室の飲み会、だって、あったじゃねぇか」  たぶん僕が思うに、研究室の集まりでは近くに座った人が話しかけたり、白坂のペースをセーブしていたに違いない。少なくとも、こんな状態になる前には誰かが止めたと思う。 「……わ、たし……は……」 「反論はいいよ。俺は今、お前が喋れ、ないのに、乗じて、文句を言ってんの。黙って聞いとけ……っくあー、つか、ちょっと休憩!」  沢はそこまでを吐き切るように言うと、川に架かる橋の前にあった石造りのベンチに腰掛けた。口は荒いものの白坂を優しく隣に横たえて、それから自分の荷物も放り出して息を整える。 「いや、暑っつ。さすが夏真っ盛り。んでお前さ、宿は予約してんの? この辺の宿なんて今から飛び入りしたって絶対どこも空いてないだろうし、駅に行くならタクシー呼ぶしかないし」 「……ふ、う、さい……そう」 「フーサイソウ? なんだそれ」  沢はそこからしばらく待ったが、返事がないとわかるとポケットからスマホを取り出した。 「はあ……まあ、ちょっと検索してみるか……あ、電池少ねぇわ。シータ、やばくなったら分けてくれな」  な……まさか君、僕の生命力を吸い出すつもりか! 「だって背に腹は代えられないしな。現代人にとってスマホの電池切れイコール死、だしさ」  充電が切れたら動けなくなるのは僕も同じなんだぞ!  しかし憎たらしくも沢は、そんな僕の抗議など聞こえないかのような顔でスマホの画面を見続けた。ややあってその表情が変わる。どうやら成果があったらしい。 「お、あったあった、『風彩荘―華―』。この辺にある旅館の名前か。場所は、えっと……川沿いを上って途中で横に逸れて……そこからちょっと離れたくらいか。うわ、結構高い宿だぞ、ここ。さすがお嬢、いいとことるねぇ」  本当だ。街の中心からは適度な距離、少し入り組んだ道ゆえに静かな宿で、山の傾斜の中腹にあるため眺めも良い、か。佇まいや立地、宿泊費も含めて文句なしの高級旅館だ。 「んじゃ、とりあえずそこまで白坂届けるかー。悪いがシータはまた自分でついてきてくれな」  いぇっさー。君が僕の電力を奪わないうちはね。  それから沢はまた歩き始めた。白坂を背負って、彼にしては珍しく黙々と。  さすがの沢も、無駄に喋れば体力を使うだけだと学んだようだ。彼の身体にだってそれなりにアルコールは回っているはずだし、この暑さでの疲労もあるだろう。坂道を上っていく足取りは、正直に言えば僕の方が早いくらいだ。  聞こえるのは彼の少し荒い息遣いと、地を踏みしめる音。僕の移動に伴う駆動音は非常に微小で、引かれるキャリーバッグのガラガラに上手く紛れている。時折吹き抜ける風に揺れる柳の葉は、ゆっくりと進む僕らを包み込むように淡く鳴る。並ぶ宿先や道には最低限の光だけが灯されていて、足元は見えても向かう先は照らされない。暗く静かな空間は、まるで知らないうちに僕らを別世界にでも迷いこませたかと疑いたくもなったが、しかしどこからともなく響いてくる幽かな下駄の音が、そんな感覚を鎮めてくれた。  ここは夜でも蒸し暑い。沢の額からは玉のような汗が浮かんでは流れ落ちる。片目を瞑って歩いているのは、その汗が目に入らないようにしているのか。あるいは今になってようやく、身体に充満していたアルコールから痛みだけが濾過されて頭の中に残っているのか。背負われている白坂の髪もよく見れば汗に濡れていて、その雫はたびたび流れて沢の首筋に落ちていく。  そうして歩いたのは二、三十分くらいだったはずだ。体感では二倍か三倍はかかったような気もしたが、とにかく僕らは目的の宿にたどり着いた。  幽玄な門構えに立派なエントランス。想像通りの良い宿だ。夜ももう結構遅いが、それでも予約客のチェックインがまだだからか、フロントでは着物の女性が一人、受付をしていた。  沢は透明な自動扉をくぐるなり、真っ先にそこへ向かって歩き、言った。 「すみません。今夜、ここに予約してるはずなんですけど」  女性は一瞬、わずかに驚いたけれども、すぐに手元のノートパソコンを確かめて答えた。 「一名様でご予約の、白坂様ですね?」 「こいつがそうです。申し訳ないんですが、部屋の案内と荷物、お願いしてもいいですか」  すると女性は、フロントから出てきて沢の手からキャリーバッグを受け取った。 「ほら白坂、着いたぞ」  沢は背中に向かって声をかけながら白坂を下ろす。  彼女はまだ幾分か辛そうな顔をしていたが、それでもなんとか座り込まずに両足で立った。  沢はそれを見届けると、自身のリュックを背負い直し「んじゃな。まあ、せめてスーツは着替えてから寝ろよ」と残して出口へと向かおうとした。  けれどそのとき、沢の身体は後ろへ引っ張られる。白坂が沢のTシャツの裾を掴んだからだ。 「んあ。おいなんだよ」 「……まっ……あな、た……も……」 「……え、俺が何? わりーけど俺、もう結構疲れたから、早いとこ宿探して寝てーんだけど」  沢の言葉に、白坂は裾を掴んだまま首をふるふると力なく横に振る。 「なんだよ……礼か文句ならまた今度聞くよ。それでいいだろ」  それでも白坂は、依然としてただ首を振るばかりだった。言いたいことはあるようだが、言葉を発する余裕は、まだないのだろう。そんな白坂に、沢も困ってしまったようだ。フロントを前にして二人、極めて微妙な膠着状態となる。数十秒ほどの沈黙を経て、しかし白坂の意図をいち早く察したのは、部屋への案内をしようと様子を伺っていた女性だった。 「あの……もともと二人部屋ですので、こちらへどうぞ」
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