第四章 二人:シミラーカラー 1

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○ ○ ○  陽がすっかり地平線に隠れてしまったあと、廊下を移動していた僕のカメラに映った人影。どういうわけかそいつはリュックを背負ったまま、缶コーヒー片手に壁にもたれていた。 「よぉ、シータ。元気してっか」  まあ元気だけど……ていうか沢、もしかして今、登校したのかい?  僕は彼を咎める意味も含めてその足先に何度も衝突する。 「はは、わかってるわかってる。遅刻の件はちゃんと梅田先生にでも謝るよ」  いや、遅刻とかいうレベルじゃないんだけど。 「んでよ。先生んとこ行こうとしたら、この向こうから声が聞こえるんだよ」  向こう? この壁の向こうは確か……。 「教授室に先生たち三人が集まって話してるんだ。なんか面白いこと聞けっかなって偵察中」  うん。一般的に人はそれを盗み聞きって言うね。やめようね。  僕は引き続き彼の足先にぶつかり続ける。しかし沢ときたら笑うばかりでやめようとしない。  仕方がないのでそんな彼が良からぬことを企まないよう、僕もここで見張ることにした。すると彼の言った通り、壁の向こうから何やら声が聞こえてくる。 「にしても、あいつらのやり口は気に食わねー! ちょっと前は、たまに突っかかってくるくらいだったから黙ってたけど、最近はどうにも程度が過ぎる!」  叫ぶ一歩手前くらいの声量で怒っているのは、おそらく梅田。正直、これは壁に張り付いていなくても聞こえてしまう。それをなだめるように落ち着いた声で返すのは蓮川だ。 「うむ。今回の査読で問題になった論文は、梅田くんが手塩にかけて書いたものだからね。心中穏やかではなかろう。無論、私もだ」  どうでもいいが、蓮川はいつの間に帰国していたのだろう。神出鬼没この上ない。 「それだけじゃないですよ。あの実験にはたくさんの関係者がいる。大事なみんなの功績だ。なのにあいつらときたら、あからさまに不当な評価しやがって!」 「まあ、とはいえ他からの査読評価は上々だ。雑誌への掲載は問題ないだろう」  査読というのは、研究者が学術雑誌に論文を投稿した際、事前に同分野の研究者に、検証および評価を行わせるものだ。この結果により雑誌への掲載可否も別れるため、審査の意味合いも併せ持っている。このシステムがあるからこそ、世に送り出される論文の質が高い水準で維持される。しかし同時に、情報漏洩や権威主義による弊害が生まれているのも、また事実。梅田が今問題にしているのはその後者、権威を盾にした不当評価についてだろう。 「だとしても、これじゃあ私の気が収まらない。特に今年になってからは酷いです。嫌がらせを通り越して、まるで徹底抗戦だ」 「おそらくは僕たちが痺れを切らして声を上げたところに応戦して、上手いことやろうって魂胆でしょうね。向こうの研究室と提携している企業も関わっているはずですし」  伏屋が冷静な分析を述べると、蓮川もそれに賛同し、梅田に言った。 「うむ。つまりこれは、わかりやすい挑発だよ、梅田くん。それだけ私たちの研究が注目されているということじゃないか。いや、人気者は辛いね」  あくまで余裕を崩さない蓮川を前に、梅田も自身を省みたらしい。どうにか落ち着こうと、拳を握りながら目を閉じて黙る姿が想像できた。  そして一度会話が途切れてから、蓮川がぽつりと言う。 「しかし、今年になってから……か。まあ、心当たりが、ないわけでもないが」 「もしかして……白坂さん、ですか?」  応じた伏屋の言葉に、蓮川は「ほぉ」と驚きを示した。「伏屋くん。君もなかなか鋭い」  蓮川が椅子から身体を起こしたのか、キイという骨組みの軋む音が部屋に響く。 「うん。白坂凛璃くんがこの件に直接関係しているかはわからないが、確かに彼女がうちの研究室に入った今年から、相手さんの影には、行政関係のルートで白坂の名前がちらついている」 「白坂といえば、政界ではそれなりに名の通った一派ですね。ゆえに方々に力は伸びるのでしょうが……しかし、我々と敵対する意味がわかりません」 「わからんね。けれどあれこれ勘ぐっても仕方がない。結局はわからんのだから。蓋を開けたら、やっぱり無関係でしたってオチもあるかもしれないよ」 「それは……そうですが」  蓮川はそこで溜息混じりに笑みを作る。 「まったく、政治が科学に干渉するなどいかにも無粋。しかし両者が切って切り離せないのも、また事実。科学と政治は非常に密接したファクターであると、改めて痛感するよ」 「それは、蓮川さんの先生のお言葉ですね」  伏屋が言うと、蓮川は頷きつつも軽快に答えた。 「はっはっは。その通りだよ。私の唯一にして最大の恩師、白坂教授のありがたいお言葉だ。そして私は、どうにもこの名に縁があるらしいね。ただできることなら、この名と争いたくはないと思っている」  それを聞いた梅田は悔しそうに蓮川に尋ねる。 「けど蓮川さん、それじゃあ」 「もう少し様子を見よう。下手に動くと返ってよくない。梅田くん、それは君にとってもだ」  梅田はその答えにやや歯がゆそうな様子であったが、それでもやがては「蓮川さんが……そう言うなら……」と納得を示した。蓮川は「うん」と再び頷いて、さらに続ける。 「執拗なまでの成果主義、蹴落とし合い、権力争いに面倒な駆け引き。純粋に真理を追求する学術界には一切無用なはずのものが、私たちの周りには溢れているね。実に嘆かわしいことだ。嘆かわしすぎて、とても仕事が手につかんよ」  蓮川の肩をすくめて呆れる姿が目に浮かぶようだ。 「夕食にでも、行きましょうか」  伏屋が仕切り直しとばかりにそんな提案をすると、梅田も思い出したように付け加える。 「そういえば、最近できた近くの定食屋。蓮川さんは、まだ行ったことないと思いますよ」  すると蓮川は軽快に椅子から立ち上がって言った。 「よし、ではそこへ行こう。払いは私が持とうじゃないか」  僕と沢がいる方ではない、教授室からお茶部屋へと直通の扉に三人が向かう。そしてそのまま、先生たちが外へと出ていくと、不意に辺りは静寂に包まれた。  沢はしばらくの間、動きを見せずにじっとしていたが、やがてもたれていた壁から背を離す。 「てか今更だけど、蓮川先生、帰ってたんだな」  口ではそんななんでもないことを言っていたものの、彼の胸中にはもっと、別のことが浮かんでいたはずだ。あれはそういう顔だった。沢はその足取りでお茶部屋へと向かう。  ついていくと、テーブルの上には明らかに外国産らしきパッケージのお菓子が封を切って置かれており、蓮川の土産だとわかる。沢はその菓子を一つ摘み上げては口へ運ぶと、自分のマグカップにコーヒーを注いでテーブルについた。
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