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陽がすっかり地平線に隠れてしまったあと、廊下を移動していた僕のカメラに映った人影。どういうわけかそいつはリュックを背負ったまま、缶コーヒー片手に壁にもたれていた。
「よぉ、シータ。元気してっか」
まあ元気だけど……ていうか沢、もしかして今、登校したのかい?
僕は彼を咎める意味も含めてその足先に何度も衝突する。
「はは、わかってるわかってる。遅刻の件はちゃんと梅田先生にでも謝るよ」
いや、遅刻とかいうレベルじゃないんだけど。
「んでよ。先生んとこ行こうとしたら、この向こうから声が聞こえるんだよ」
向こう? この壁の向こうは確か……。
「教授室に先生たち三人が集まって話してるんだ。なんか面白いこと聞けっかなって偵察中」
うん。一般的に人はそれを盗み聞きって言うね。やめようね。
僕は引き続き彼の足先にぶつかり続ける。しかし沢ときたら笑うばかりでやめようとしない。
仕方がないのでそんな彼が良からぬことを企まないよう、僕もここで見張ることにした。すると彼の言った通り、壁の向こうから何やら声が聞こえてくる。
「にしても、あいつらのやり口は気に食わねー! ちょっと前は、たまに突っかかってくるくらいだったから黙ってたけど、最近はどうにも程度が過ぎる!」
叫ぶ一歩手前くらいの声量で怒っているのは、おそらく梅田。正直、これは壁に張り付いていなくても聞こえてしまう。それをなだめるように落ち着いた声で返すのは蓮川だ。
「うむ。今回の査読で問題になった論文は、梅田くんが手塩にかけて書いたものだからね。心中穏やかではなかろう。無論、私もだ」
どうでもいいが、蓮川はいつの間に帰国していたのだろう。神出鬼没この上ない。
「それだけじゃないですよ。あの実験にはたくさんの関係者がいる。大事なみんなの功績だ。なのにあいつらときたら、あからさまに不当な評価しやがって!」
「まあ、とはいえ他からの査読評価は上々だ。雑誌への掲載は問題ないだろう」
査読というのは、研究者が学術雑誌に論文を投稿した際、事前に同分野の研究者に、検証および評価を行わせるものだ。この結果により雑誌への掲載可否も別れるため、審査の意味合いも併せ持っている。このシステムがあるからこそ、世に送り出される論文の質が高い水準で維持される。しかし同時に、情報漏洩や権威主義による弊害が生まれているのも、また事実。梅田が今問題にしているのはその後者、権威を盾にした不当評価についてだろう。
「だとしても、これじゃあ私の気が収まらない。特に今年になってからは酷いです。嫌がらせを通り越して、まるで徹底抗戦だ」
「おそらくは僕たちが痺れを切らして声を上げたところに応戦して、上手いことやろうって魂胆でしょうね。向こうの研究室と提携している企業も関わっているはずですし」
伏屋が冷静な分析を述べると、蓮川もそれに賛同し、梅田に言った。
「うむ。つまりこれは、わかりやすい挑発だよ、梅田くん。それだけ私たちの研究が注目されているということじゃないか。いや、人気者は辛いね」
あくまで余裕を崩さない蓮川を前に、梅田も自身を省みたらしい。どうにか落ち着こうと、拳を握りながら目を閉じて黙る姿が想像できた。
そして一度会話が途切れてから、蓮川がぽつりと言う。
「しかし、今年になってから……か。まあ、心当たりが、ないわけでもないが」
「もしかして……白坂さん、ですか?」
応じた伏屋の言葉に、蓮川は「ほぉ」と驚きを示した。「伏屋くん。君もなかなか鋭い」
蓮川が椅子から身体を起こしたのか、キイという骨組みの軋む音が部屋に響く。
「うん。白坂凛璃くんがこの件に直接関係しているかはわからないが、確かに彼女がうちの研究室に入った今年から、相手さんの影には、行政関係のルートで白坂の名前がちらついている」
「白坂といえば、政界ではそれなりに名の通った一派ですね。ゆえに方々に力は伸びるのでしょうが……しかし、我々と敵対する意味がわかりません」
「わからんね。けれどあれこれ勘ぐっても仕方がない。結局はわからんのだから。蓋を開けたら、やっぱり無関係でしたってオチもあるかもしれないよ」
「それは……そうですが」
蓮川はそこで溜息混じりに笑みを作る。
「まったく、政治が科学に干渉するなどいかにも無粋。しかし両者が切って切り離せないのも、また事実。科学と政治は非常に密接したファクターであると、改めて痛感するよ」
「それは、蓮川さんの先生のお言葉ですね」
伏屋が言うと、蓮川は頷きつつも軽快に答えた。
「はっはっは。その通りだよ。私の唯一にして最大の恩師、白坂教授のありがたいお言葉だ。そして私は、どうにもこの名に縁があるらしいね。ただできることなら、この名と争いたくはないと思っている」
それを聞いた梅田は悔しそうに蓮川に尋ねる。
「けど蓮川さん、それじゃあ」
「もう少し様子を見よう。下手に動くと返ってよくない。梅田くん、それは君にとってもだ」
梅田はその答えにやや歯がゆそうな様子であったが、それでもやがては「蓮川さんが……そう言うなら……」と納得を示した。蓮川は「うん」と再び頷いて、さらに続ける。
「執拗なまでの成果主義、蹴落とし合い、権力争いに面倒な駆け引き。純粋に真理を追求する学術界には一切無用なはずのものが、私たちの周りには溢れているね。実に嘆かわしいことだ。嘆かわしすぎて、とても仕事が手につかんよ」
蓮川の肩をすくめて呆れる姿が目に浮かぶようだ。
「夕食にでも、行きましょうか」
伏屋が仕切り直しとばかりにそんな提案をすると、梅田も思い出したように付け加える。
「そういえば、最近できた近くの定食屋。蓮川さんは、まだ行ったことないと思いますよ」
すると蓮川は軽快に椅子から立ち上がって言った。
「よし、ではそこへ行こう。払いは私が持とうじゃないか」
僕と沢がいる方ではない、教授室からお茶部屋へと直通の扉に三人が向かう。そしてそのまま、先生たちが外へと出ていくと、不意に辺りは静寂に包まれた。
沢はしばらくの間、動きを見せずにじっとしていたが、やがてもたれていた壁から背を離す。
「てか今更だけど、蓮川先生、帰ってたんだな」
口ではそんななんでもないことを言っていたものの、彼の胸中にはもっと、別のことが浮かんでいたはずだ。あれはそういう顔だった。沢はその足取りでお茶部屋へと向かう。
ついていくと、テーブルの上には明らかに外国産らしきパッケージのお菓子が封を切って置かれており、蓮川の土産だとわかる。沢はその菓子を一つ摘み上げては口へ運ぶと、自分のマグカップにコーヒーを注いでテーブルについた。
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