第四章 二人:シミラーカラー 1

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○ ○ ○  実に三時間の間、沢は椅子に座ったまま微動だにしなかった。だらりとした両手で持たれたマグカップの中のコーヒーも、三分の一くらいを残して、とうの昔に冷め切っている。目ははっきりと開かれているから寝ているわけではないのだろうが、一体全体どうしたのか。  僕がしばらくそんな彼を見つめていると、視界の反対側で扉が開いた。 「あら、沢くん。どうしたのー? ぼーっとして」  現れたのは橋原。作業用の手袋の片方を外しながら、部屋の隅にある備品棚に向かっていく。どうやら実験中で、何か必要なものを取りに来たようだ。  話しかけられた沢は、それでようやく我に返った。手元に残るコーヒーを即座に飲み干すと、なんでもないような様子で応じる。 「ああ、いえ、ちょっと休憩です。ってか橋原先輩、こんな遅くまでいるなんて、珍しいっすね。帰りの電車、あるんすか?」  棚の前でしゃがんだ橋原は、ポニーテールを可愛らしく左右に揺らしながら、棚を上から順番に開けては閉めを繰り返していく。  その音と同期して進む壁掛け時計の秒針。示される時刻は、午後十時四十二分。 「んー、あるにはあるわよ。でも、今日はもう少しかかりそうだし、夏子先輩のところに転がり込もうかなって考えているところ」 「そこまでして実験するなんて、さすがっすね」 「私の場合、普段はバイトであんまり遅くまでできないから、こういう、できるときにやっておかないとって思ってるだけよ」  橋原があまり遅くまで研究室に残るタイプでないのは事実だ。その分だけ朝は早く来ることが多いので、直属の上司である伏屋とは相性が良いとも言える。なぜなら、伏屋も家庭を気にして、早めに来て早めに帰るようにしているから。  この研究室、誰が指示したわけでもないのに、結構明確に朝型と夜型に分かれている。 「橋原先輩って、バイトしてるんすか?」  沢はそのことを知らなかったのか、案外、驚いた様子で問いかける。 「してるわよ。場所は家のレストランなんだけど、お給料もらってて、他に働いてる人と一緒にシフトも組まれてるから、まあ、ほとんど普通のバイトとおんなじね」 「へぇー、意外だなぁ」 「そう?」 「はい。なんか、この研究室の人たちって、みんな研究一筋って感じがしてました」 「えー、そんなことないわよ。私だってバイトくらいするし、例えば、河村くんがカメラ好きなのは知ってるでしょう? 彼なんて、研究のことよりもカメラのことを考えている時間の方が長いと思うわよ」 「ああ、いや……そうですね。あれ……? 確かにその通りだな。河村先輩って、俺よりもそんなに真面目なのか……?」  沢は呟きながら首を捻った。橋原は立ち上がってこちらに振り向き、彼の様子を見て笑う。 「ふふっ。どうしたの? そんなこと考えてるなんて、君の方こそ意外なんじゃない?」 「ははは。まあ一応、自覚はあるんですけどね」  沢は右手を持ち上げて自身の頭を掻く。そうして視線を、再び空のマグカップに落とすと、一呼吸置いて言った。 「なんていうか、ちょっと真面目になってみるのもいいかなーって思ったんですよ。ほら、真面目にやった方が楽しいことって、いっぱいあるじゃないっすか」 「それは……その通りね」 「同期で他の研究室に入ったやつらとか、結構そのタイミングでバイトやサークル辞めたりもしてて……今更だけど、俺もそうした方がいいのかなって」  そこまでを聞くと、橋原は笑顔に細めていた眼を一瞬見開き黙したが、やがて「……ふぅん、なーるほど」と小さく零して歩き出した。はめたままでいたもう一方の手袋を素早く取り去り、そのままテーブルの椅子につく。沢から右に、二人分ほどの空間を空け。 「やっぱり私も、少し休憩しようかしらね」  沢にとって、それはやや唐突な発言だっただろう。 「え、でも実験中なんじゃ」 「とりあえず一段落してるし、大丈夫よ」 「そう、なんすか?」と疑問符を浮かべながらも、すると沢は立ち上がる。 「じゃあ飲み物用意しますよ。何がいいっすか?」 「ありがとう。紅茶をお願いするわ」  こういう気遣いが媚びでも気障でもなく自然なところは、彼の良いところだと思う。沢の用意する紅茶を待つ間、橋原は手近に見つけた菓子の一袋に手を伸ばした。 「あら、これ意外と美味しいわね」  美味しいのか……それは確か、蓮川のお土産だったはずだが……。  噂によると、蓮川の土産は結構な率でゲテモノらしい。それを知りながら躊躇なく食すここの皆はさすがと言わざるを得ない。  しばらくして、沢は温かい紅茶を橋原の前に差し出した。自分も自分で、マグカップにまた新たなコーヒーを充填しているあたり抜かりない。二人が座り込んで一服する間、ただ秒針の進む音だけが部屋を満たした。やがて橋原が、紅茶から立ち上る湯気に交えてぽつりと言う。 「つまり君は、頑張りたいのね」 「え?」 「さっきの話。真面目になってみるのもいいかなって思って、その方法を探してるんでしょう?」  沢としては、その話題はもう既に終わった思っていたのかもしれない。わざわざ改めて橋原の方から水を向けられるとは考えていなかったのだろう。少々戸惑いながら応じる。 「あ……まあ、はい。そうです、けど……橋原先輩、ちょっと簡単に信じすぎじゃないっすか? いつも軽口満載な俺が、いきなり真面目になろーかなって言ってるんすよ? こんなの、単なる気紛れな嘘かもしれないのに」 「私、君が嘘を言っているところって、見たことないわ。君は確かに、いつも軽口っぽくものを言うけど、でも、言ったことは全部実行してるじゃない? それって本当は、軽いのは口じゃなくてフットワークなんだなって思うの。さっき意外って言ったのは、君が真面目になろうとしてることじゃなくて、君が真面目になろうって思って、でもそれを私に話すくらい、慎重になってるところよ」  橋原の返答は、きっと沢の想像の何倍も真剣だった。もう今更、冗談めかしてはぐらかすことなど、できないくらいに。結果、ついに口を開けてぽかんとするのみとなった沢に対し、橋原はもう一度ゆっくり語りかける。 「辞めるのも一つの手なんじゃない?」 「……え?」 「バイトよ、バイト。あと君の場合は、サークルとか、その他諸々? 何か一つのことに一生懸命になろうとするとき、代償として他のものを差し出すのって、わかりやすいやり方だと思うから、それもありなんじゃないかなってこと」 「わかりやすい……っすか」 「うん。踏ん切りとか、覚悟としてね。もしその先で辛いことが起こったとしても『でも、あれもそれも捨ててこれに賭けたんだから』って思えるじゃない。そういうときのために、先に事実を作っておくの」 「……なるほど」  そういう感覚は、どんな人にも少なからずあるのではないだろうか。ただもらうよりも交換で得る方が、ただ失うよりも何かの引き換えにする方が、その方が、納得できる場合がある。そしてその結果、自身の手元に残ったものの価値は、よりいっそう大きく見えるものだ。 「ま、そうじゃなくても、純粋に目的とすることのために大量の時間や労力が必要だったりして、自分のキャパシティと相談した場合に致し方ないってこともあるわね」 「……なるほどなるほど」  眼を閉じて、何かの講義のように人差し指を立て話す橋原。彼女は再びカップを手に取り、自らの口へと紅茶を運んだ。茶器の奏でる高い音は、傍にいる僕のサウンドディテクタを心地良く刺激する。カップの中身が空になったことを確認すると彼女は、すっと背筋を伸ばして椅子を引き、滑るようにして沢に近づいた。 「でもね」 「うおっと」  橋原は「ふふっ。驚いた?」と下から覗き込むようにして沢を見る。 「方法は必ずしもそれだけじゃないと、私は思うわ。一点集中でなければ一生懸命でないとは思わない。勉強のできる人が総じて運動音痴ではないように、スポーツマンが総じて無知ではないように、文武両道は十分可能だし、どころか、それぞれの要素が互いに高め合うとも思っている。例えば私、これまで研究で行き詰まったときなんか、座って頭捻ってた机の前よりも、バイト中にいいアイディアを思いついたことの方が多いのよ」 「ああ、そういうのはわかります。俺も高校の頃、文化祭の劇の脚本で長いこと悩んでたんすけど、結局いいネタ思いついたの、ファミレスのバイトでパフェ作ってるときでした」 「そうそう、そんな感じ」と答える橋原は、そのまま体勢を戻して続けた。 「私個人としてはね、何かを得るために何かを差し出すっていう、そういう『世の摂理』みたいなの? ノーセンキューよ! 私は根が欲張りだから、そんなルール知らない。だって欲しいものは、全部欲しいんだもの」 「あはは。そりゃ、なんつーか、いっそ清々しいっすね。橋原先輩が夏子先輩と上手くやってるのが、それ聞いて納得できました」  大笑いする沢を見て、橋原も「でしょ」と一緒になって笑う。やがて彼女は、沢のすぐ隣でテーブルに向かい、両手を軽く重ね合わせた。 「一生懸命の、努力の形って、人それぞれよ。世界には色んな人がいるんだもの。努力を見せる人とか、努力を隠す人とか……あとは、努力するふりをする人、とかね」  沢はただ黙って、重ねられた橋原の白い両手を見つめている。 「ちなみに私は、そういう嘘も悪いとは思わないわ。私も人並みに、人の評価が気になることはあるし。でも……自分にだけは、嘘、つけないじゃない。だからこそ、自分の納得した方法で、一生懸命やるの。そうすれば、誰がなんて言ったって『自分は本気だ』って胸張れる。そういう風にしている人が、頑張ってる人だって、私は思うから」  そして長い沈黙が落ちた。沢も橋原も動かない。動かないで、たぶん、ただ純粋に、思考している。窓から見える黒い建物たちは、所々から四角に区切られた灯りを発しているが、たった今、その中の二つが連続して消えた。 「そう、っすね。先輩のスタンス、俺、好きです。俺は、今まで色んなことやってきたけど……その全部に本気だったかは、もうわからないけど……でも、本気出さなきゃいけないときに出せないのって……なんか、格好悪いっすもんね」  初めは独り言のように小さな声だったそれは、しかし段々とはっきりした言葉となり。 「だから俺はこれから、自分で自分の一生懸命、探します!」  最後には、沢の右手で握られたささやかな拳にも似つかわしい宣言となった。 「そうね。応援してるわ」  橋原は満足気に、いっそう優しく彼に微笑む。 「ありがとうございます!」 「よし。じゃあ、もっといい顔して、楽しくいきましょう。『楽しく』は君の得意分野よね」 「イエッサー! その通りであります!」  沢は、さきほどまで静かだったのがまるで嘘のように突然立ち上がり、敬礼などしてみせる。 「私、サーじゃないけどね」  その指摘に沢は「あれ? そっか。じゃあ」と首を傾げたが、やがて二人は笑い合いながらテーブルを離れ、部屋から出ていった。きっとそれぞれの仕事に向かったのだろう。橋原につられたのか、沢までがこんな時間からデスクに向かうなんて、僕としては意外だったけれど。  結局その夜、橋原が研究室をあとにしたのはそこから二時間後のことで、沢はそのさらに二時間後に帰宅した。帰り際に僕の様子を見にきた沢の表情は随分と眠そうであったけれども、同時にとても晴れやかであった。
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