第一章 二人:コンプリメンタリーカラー 1

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○ ○ ○ 「だあぁぁー! やっと終わったぜ!」  外界の陽が落ちた頃、105号室で皆の机周りをうろついていたら、沢がバタバタと駆け込んできた。隅にある自分の机に飛びつくと、すぐに荷物を取って引き返していく。 「お疲れ様でしたー!」  いつもは賑やかな居室なのだが、今日はたまたま樋尾しかおらず「おーす。お疲れー」と気の抜けた声が返るだけである。  沢の帰宅に合わせて僕が廊下へ出ると、しかし沢は、玄関扉よりいくぶん手前で立ち止まっていた。黙って横を向いている。なんだろう。何か目を引くものでもあったのだろうか。  僕は沢に近づいていき、その視線の先を確かめた。  そこには一人の女子生徒がいた。透明なガラス扉を挟んだ部屋の中――105号室に対してやや小さめの“104号室”で一人、机に座って書籍を読んでいる。本来は准教授と、さらにもう一人の学生がいる部屋でもあるが、今は不在だ。したがって部屋は全体的に暗く、彼女の手元のデスクライトだけがいやに明るい。 「うわ、あいつ真面目かよ」  彼女は沢と同じB4で、つまりは沢の同期である。『今年配属された新人の真面目な方』。長い黒髪に白のブラウス、フレアスカートという装いは、まるでそれが一種の制服であるかのようで、彼女は、研究室に来るときはいつもその格好だった。  見ると、彼女が読んでいるのは、配属初日に渡された光の研究についての教科書だ。あまりに黙々と読んでいるので、僕は今の今まで彼女が研究室にいることに気づいていなかった。 「確か、白坂……なんだっけ」  どうやら沢は、彼女の名前を思い出そうとしているらしい。  いやいや、君、たった一人の同期の名前くらい覚えたらどうなんだい。  僕はその言葉の代わりに、リリリリ、と鈴の音のような効果音を鳴らしてやる。 「ああ、そうそう。白坂凛璃(しらさかりり)。もしかしてシータ、覚えてたのか?」  うん。なにせ僕は機械なのだ。記憶力に関して侮ってもらっては困る。  そう思いながら、僕は赤いシグナルランプを煌々と光らせた。  だいたい、君と彼女はずっと同じ教室で授業を受けてきたんだろう? 君の方が、彼女のことには詳しいんじゃないのかい。 「俺、白坂とは今まで絡んだことないんだよな。あいつ、授業でもずっと一人だったし、誰かと喋ってるとこ、全然見たことない。それに、ほら、ぶっちゃけ高嶺の花って感じだし」  まあ……うん。確かに容姿、雰囲気ともに近づき難いイメージなのは概ね同意だ。  特に僕は、彼女とはまだ出会って数日の間柄。明け透けで順応性のお化けのような沢と違って、普通の人間はいきなり機械に話しかけたりはしないだろうが、その点を差し引いても彼女にはやや避けられ気味な印象を受ける。したがって僕は今も、彼女のことをほとんど知らない。  そうやって沢と僕が二人で固まっていると、唐突に横から声がした。 「うぃす。沢じゃん、はよー」  声の主は長い髪を跳ねさせたまま、洗いざらしのシャツに身を包んだ男子学生だった。 「あ、河村先輩。ちっす」 「相変わらずその髪は目立つねぇ。何してんの? 覗き?」 「ち、違うっすよ」  この男は河村聖(かわむらあきら)といって、沢の一つ上の先輩だ。数ヵ月前に卒業論文を提出して学士号を得て卒業、今年度から修士課程一年目のM1としてここに通っている。  そんな河村に、沢が事も無げに問う。 「先輩、今来たんすか?」 「そうだよ」 「相変わらず清々しい昼夜逆転ぶりっすね」 「ここ、夜のが静かだからねー。沢は今帰り?」  尋ねられた沢は、そこで自分の使命を思い出したとばかりに跳ねた。 「あ、そうだ。俺バイト行かなきゃ!」 「おー、いいねーバイト。青春だねー」  河村は気の抜けた何かのメロディに乗せてそう答える。  沢は挨拶と同時にもう駆け出していた。 「てわけで先輩、お先っす」 「お疲れお疲れー」  沢の去ったあと、河村はノロノロと踵を返した。彼は脇に愛用のノートパソコンを挟んで、両手をポケットに突っ込み、猫背のままでお茶部屋へと向かう。そして真っ暗な空間に照明を灯すと、共用の大きな冷蔵庫に手をかけた。その中の一角には怪しい色とりどりのボトルがある。全て、彼が研究の合間にネット通販で集めた海外製の栄養ドリンクだ。  彼は一本のボトルを取り上げる。巻かれたパッケージはどう贔屓目に見ても日本で飲まれることを視野に入れたものではなく、中身の信じられない色の液体は、一瞬で逆さのボトルから彼の胃袋へと落ちてゆく。よくあんなもの飲んで生きていられるな。僕の中の潤滑油の方がまだマシな色をしているぞ、とつくづく思う。 「うん。これはやっぱりなかなかの味だな。覚えておこう」  そう言って彼は、空になったボトルをキッチン台で丁寧に洗った。  彼は気に入ったドリンクに出会うと、次にまた注文するため、ボトルを自分の机に置いておくのだ。その結果、彼の机には世界各国の様々な栄養ドリンクの空き容器が、まるでタワーかバリケードのように並べられることになる。彼は他人がそのオブジェに触れることを決して許さない。噂ではオブジェの後ろに、カメラまで設置しているらしいのだ。  また、彼は極度のメカオタクでもある。よく忘れそうになるが、昨年のある日、この僕を作り上げたのも他ならぬ彼なのだ。実に尊敬できない生みの親である。 「あ、そういやシータ」  彼は唐突に振り返ると、僕を見下ろして言った。 「移動と方向転換のアルゴリズムを少し見直したんだ。更新プログラム作ったよ」  更新プログラム? 「これで前みたく、部屋の隅から脱出できずに壁に向かって進み続けることもなくなるよ」  なっ……失敬だな! あ、あれは抜け出せなかったんじゃなくて……あのときは、あの壁に張り付くことに確固たる目的があったんだ。決して、決して不具合じゃあない。 「バッテリー減ってもホームに戻れないと困るもんなー」  た、確かにそれも一理あるけど……いやでも、だからあれは不具合じゃないんだってば。 「あ、バグの心配はないよ。ちゃんとデバッグしてあるから」  ……本当? 本当にバグの心配はないんだね? ならまあ受け取らないこともないけど……。  僕はやがて、逡巡しながらも間延びした音を出す。すると、河村はそれを承諾と受け取ったのか、満足げな表情をして去っていった。  やれやれ、毎度お節介な主人である。今のままでも、僕は十分に完成された存在だというのに。でも、もらえるものはもらっておこう。  彼を見送ると、僕はお茶部屋に設けられたホームスペース――活動源である電力エネルギーを補充する待機場所に身を預けた。
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