二人:コンプリメンタリーカラー 2

3/6
前へ
/46ページ
次へ
○ ○ ○  正午過ぎになると、僕は退屈凌ぎに研究室を出た。先日、河村に施してもらったアップデートを試してみたくなったのだ。彼はあのとき、移動と方向転換のアルゴリズムを更新するためのプログラムを僕に与えたが、実のところ、それと同時にもう一つの改良を行った。  名付けて壁走り。これにより僕は、機体を壁に吸い付けながら進むことができる。そう、気分はまるでスパイダー! 地味な更新プログラムより、こっちの方がよほど前衛的で有用だ。  しかし、いきなりそこらの外壁を伝って落下でもしたらあわやスクラップだし、無闇に目立つのも好ましくない。したがってまずは、研究室近くのひとけのない廊下で試験運用である。  走行しながら壁に寄り、右半身を乗り上げて順調に垂直走行へ。しばらく体勢を保ちながら徐々に上昇。屋外を見渡すことのできる窓までたどり着き、僕はやがて、自身の手にした力の大きさにおののいた。  ふっ……これは、素晴らしい!  その優越感に浸るため、僕はしばらく窓際を進みながら外界を睥睨して回った。ジロジロ、ジロジロ、と春の心地良くも気の緩んだ光景をカメラで捉え、のち――何やら緩みきった顔で寝転がっている人間を発見した。  沢だ。彼の横たわるベンチの隣に、同じ学科の友人と思しき者もいる。二人はある建物の屋上で昼食を摂っていた。  僕は戯れに、そこに向かってズームをかける。そして彼らの唇の動きに合わせて、会話を再現してみることにした。 「だからさ。俺は楽しいこと以外、したくないんだよ!」 「うわ、出た出た! 沢のトンデモ理念!」  沢の発言を、その友人が手を叩いてゲラゲラと囃し立てる。 「俺が高校三年に上がったときのことです。尊敬すべき名も知らぬ先生が集会で言いました。『君たちには、受験までに一年ある。今から一年あれば、どんな大学にも合格できる!』って」 「ああ、その話は何度も聞いたよ。んで、先生に呼ばれてきた東大生も、それに賛成したんだよな。まったくテキトーな話だよ」 「そうか? 俺はむしろ至言だと思ったぜ。つまりは一年あれば、大概のことはそこから挽回できるってわけだ。だから俺は、一年より先のことは考えない!」 「そりゃまた豪快な屁理屈だねぇ」  友人はそう言いながら、手にしたサンドイッチの包みを開いて口に放り込む。そして続ける。 「一年より先のことは考えない、か。いやぁでも、ある意味、清々しいわ」 「わはは、くるしゅうないぞ。もっと讃えよ」 「ホントお前、それでよくこの大学入れたよ。ここ、結構偏差値高いのにさ」 「実は俺、天才だから!」  ベンチから起き上がって高々と胸を張る沢に、友人は大袈裟に肩を竦めて笑う。 「ま、天才かどうかは知らねーけど、その勇気と行動力は認めざるを得ないよ。入学から今まで三年間、バイトにサークルの掛け持ちは当たり前。ときにはライブハウスでバンドの助っ人やるわゲーセンに入り浸って徹夜するわ。他には、ボーイスカウトとかもやってたっけか?」 「あー、やったやった。合コンも腐るほど行ったし、パチンコやスロットもやった。あと、ワケわからん資格もいくつかとったよ」 「よくもまあそれだけ……下世話な趣味から意識高そうな社会貢献まで、雑食にもほどがある」 「だって、楽しそうだなって思ったんだよ。楽しいことだけが、俺の人生の絶対正義だ!」 「お前の人生、毎日パラダイスだな」 「おうよ! エブリディパラダイス! 就職も結婚も何もかも、明日じゃなければ明後日でもなく、来週や来月でもなければ、来年でもないのだ!」 「っはは。違えねぇ、違えねぇよ」  友人は膝を叩いてまた笑う。そうしてひとしきり空に向かって声を上げたあと、息をついて沢に向き直った。 「とすると、だ。沢は進学組か?」 「ん?」  その突然の質問に、沢はきょとんとする。 「進路だよ進路。沢の誇り高きポリシーでも、来年就職するつもりなら、就活は無視できないだろ? 今それをしてないってことは、大学院修士課程にご入学かと」 「ああ、まあそうだなー。俺のパラダイスはモラトリアムを前提に成り立ってるからなー」 「たいそう歪んだパラダイスだぜ」  まったくだ。僕も全力で同意する。  とはいえ実際に彼らの所属する学科では、大学院へ進む学生は多い。それは沢の言うような自立の先延ばしという理由からではなく、学科のカリキュラムが半ば大学院への進学を前提に組まれたものでもあるからだ。一年生から三年生までの授業でいかに知識を蓄えても、四年生の一年間だけ研究室に属して何事かを成すのは難しい。多くの真面目な学生は、今しばらく研究を続け、学問の深淵を覗こうと考えるのだ……とまあ、建前上はそういうことになっている。 「大学院の入学審査って面接だけだろ。んなの、あることないこと喋っとけばいいし楽勝楽勝」 「確かに、面接はよっぽど落ちないだろうな。あ、でも沢の場合、まず卒業が危ういだろ。これまで単位はほとんどギリギリ。授業はすぐサボるし、テスト勉強もロクにしなかったはずだ」 「授業の単位はなんとか取ったよ」 「お、ご立派。けどさ、今回の研究室ってやつは……かなり厄介そうだぜ?」 「そうなのか?」  尋ねる沢に、友人はたいそう気の重そうな表情で答える。 「ああ、朝は早くて帰りは遅い。しかも俺は、土曜まで毎週出てこいって言われてんだ」 「……マジかよ」 「起きて研究、飯食って研究、寝て起きてまた研究。なんなら忙しい時期は、寝ずに飯も食わずにひたすら研究。先輩は、修行僧になって悟りでも開いた方がマシだって言ってた」 「うわー……それ聞いて楽しくなくなってきた。元々楽しくなさそうだと思ってたけど、さらに楽しくなくなってきた。研究とかやりたくねー」 「ちょうどさっきも、研究室の同期とげんなり話してたところだよ。もう既に挫けそうだって」  それを聞いた沢の顔にも、わかりやすく『挫けそうです』と書かれていた。  沢の表情を覗き込んで少し気を晴らしたのか、友人は空になったサンドイッチの包みを握ってポケットに詰めた。そのまま立ち上がって伸びをする。 「んー。ところでよ沢。同期っていえば、お前んとこ、白百合さんいるだろ?」 「白百合さん?」  聞き慣れない名前だったようで、沢は立ち上がった友人を見上げた。 「そ、白坂凛璃。苗字の白と、名前の凛璃が百合のリリーで、白百合さん」 「ああ……あの楽しくなさそーな女。つか、なんだよそのあだ名」  そう答える沢の様子は、さきほどまでと比べて露骨に嫌悪を滲ませていた。 「なかなかに言い得て妙だろ? 色白美人で超高嶺の花なところも由来の一つ。家は近郊の高級住宅街の豪邸で、周辺の親戚含め、揃ってガチガチの政治一族。父親は現職の参議院議員。おそらく彼女の将来もそっち方面」 「スーパーお嬢じゃねぇか。そしてお前らはストーカーか!」  確かに。なぜ彼女の身辺情報をそれほどまで熟知しているのか。 「いやぁ、顔の広い沢なら、俺なんかよりも詳しいもんだと思ってたけど……知らないとは意外だな。だって、あーいう人間は、そうはいないものだろ。噂は自然と入ってくるよ。家柄は明らかに政治関連なのに科学系の学科に来てるってのも、かなり周りの好奇心を掻き立ててる」 「……ふーん」  興味のなさそうな沢に対し、一方の友人は、そこでニヤッと笑みを作る。 「厳格だぞー、きっと。すげー真面目だし。たぶん沢の冗談はひとっつも通じない。はてさて、キミは仲良くやっていけるかな?」 「う……やめろよ。最近それ、ちょっと悩みの種なんだよ」 「へへっ、沢にもついに悩みなんてものができたか。ざまーみろ。それでも白百合さんと同じ研究室は羨ましいね。ウラヤマシネ」 「おい、二つ目のは悪口だぞ!」 「おっと、つい本音が。学科のみんなの総意が」  割に合わないその嫉妬の声に対し、沢は顔をしかめて友人へ抗議する。  しかし友人の視線は沢ではなく、胸ポケットのスマートフォンへと向いていた。睨みつけられていることを気にする素振りもなくあっさりと言う。 「さてと。俺、そろそろ研究室に戻るわ。昼からミーティングやるって言われてて。お前もサボらずちゃんと行けよ」  そうして歩き出すとぞんざいに片手を振り、彼は沢の前から去っていった。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加