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○ ○ ○
沢は気づいていないけれど、実はその去った友人と入れ替わりで、沢に近づく人物がいた。
「悪かったわね。楽しくなさそうな女で」
「っうわああぁぁぁ!」
突然背後で声がして驚いたのか、沢は両目を見開いて叫ぶ。そして勢いのまま振り返り、声の主を見上げて言った。
「お、おまっ! 白坂!」
そのとき沢が手にしていた菓子パンは見事に地面に落下したが、白坂は素知らぬ振りで沢の横に立つ。会話だけができるくらいの、人二人分ほどの間隔を空けて。
「ええ、どうせ楽しくない女よ」
「……聞いてたのかよ。つーかどっから現れた」
「あなたの友達が下りたのと、反対側の階段から。あと、聞いてたんじゃなくて聞こえたの」
沢はその答えに少しだけ黙り、渋い顔をして砂にまみれた菓子パンを拾い上げた。やがてぶっきらぼうに口を開く。
「……お前、この屋上のことよく知ってたな。普段、誰も来ないのに」
「だってここ、研究室を出た先の廊下から丸見えなんだもの」
「廊下……? ああ、あの非常階段に繋がってるだけの」
「そう。例のお掃除機械を追いかけてたら、ここが見えたの」
ん? それってもしかして僕のことじゃないか? 研究室を出てくるとき、誰にも見られていないことを確かめたつもりだったが……よもやつけられていたとは。
あと、一応訂正しておくが僕は……。
「シータのことか。あいつ、見てくれはあんなだけど、実は掃除はしてないらしいぜ」
そう、僕は断じてお掃除ロボットじゃな――
「何よそれ、詐欺じゃない」
ひどいっ! 白坂、その言い草はあんまりだ! 言うに事欠いて詐欺だなんて!
「じゃあ何であんなに動き回ってるの?」
「知らね。でも楽しいからいいじゃん」
あ、あいつら……機械でありながら自我に目覚めた選ばれしこの僕に向かって言いたい放題……いや、待て、しかし。待つんだ僕。ここで僕がいくら怒りに任せてオイルを沸騰させたところで、離れた場所にいる彼らには、伝わるはずがないのも事実。わかっている、わかっているよ。僕はいたって冷静だ。熱くなりすぎると回路が焼ける。
「……はあ」
そうやって僕が、窓際で寂しく憤怒と戦っているうち、屋上では白坂が溜息を零した。続く言葉は、下を向いた彼女の口から、吐き捨てるように放られる。
「なんでもかんでも楽しいからって……」
それは当然、離れて座る沢の耳にも届いたことだろう。眉の歪んだ沢の顔が、僕には見えた。
「なんだよ。悪いかよ」
「別に。でも、私はそういうの好きじゃないわ。あまりに快楽主義的な発言は、人間の底が知れると思うから」
「はん、大きなお世話だ」
沢はベンチの上で大仰に足を組んで答える。
「お前こそ、あんまりずっと仏頂面だと陰気に見えるぞ」
「私は……」
沢の随分と投げやりな言葉に、白坂は静かにそう呟いた。少しして、その大きく切れ長の目をゆっくりと沢に向け、淡々と告げる。
「私は事実、陰気だもの。あなたが思っているほど、誰も彼も馬鹿みたいに明るくないのよ。昼よりは夜が好き。白よりは黒が好き。太陽よりは月が好き。そういう人だっているんだから」
「うわ……開き直りやがった」
「美人で高嶺の花が陰気じゃないっていう法則はないわ」
「自分で自分のこと美人判定って、お前、相当性格悪いぜ」
「あなたたちが言っていたんじゃない。それに、他でもよく言われるもの。だから客観的事実でしょ。統計分析は研究の基本よ」
それを聞いた沢はゲェと吐き真似をして嫌悪を示す。
「研究研究って、とんでもねぇクソ真面目」
「そうよ。私、真面目なの。だから、嫌々ながらもあなたのことを呼びにきたのよ」
対して白坂は、まったく意に介した様子を見せなかった。それでも、発言に見え隠れしていた敵意は、いつしか前面に表れている。
「練習実験、伏屋先生から二人でやるように言われたでしょう。あなたの気分に合わせていたら、終わるものも終わらないわ」
「根拠のない言いがかりはよしてもらおうか」
「それが友人から卒業を危ぶまれている人の台詞? 根拠なんてそれで十分よ。お願いだから私を巻き込まないで」
「お、お前……」
「ああ、あとそれ。その『お前』っていうのも、やめてくれるかしら」
白坂は言うと、沢から一時も外さなかった鋭い視線を瞼で遮り、踵を返して歩き出した。
「用はそれだけ。じゃあ、私は先に戻るから、昼食を摂り終えたら来なさいよ」
階段を下りていく白坂は、もう沢の方へは一瞥もくれない。そのはっきりとした振る舞いは、凛々しさと冷たさの二つを掛け合わせたような印象を、相手に抱かせる。
沢は、白坂が自分の視界から消えてさらに数秒、手元に視線を落として憎々しげに呟いた。
「……ちっ。今ので俺の昼飯、パーだけどな……」
それから、もはや食べられない菓子パンを手に、仏頂面でベンチを立った。
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