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マスターはその一言にちょっと驚きつつ、言った当人の僕は自分自身びっくりした。
さっき飲んだレンドルミンが効きはじめているのかもしれない。
導眠に強いこの薬は、効果時にたまに奇怪な行動を起こさせる。
この前も僕は気づくと深夜に自宅キッチンでゆで卵のジェンガを必死に作ろうとしていた。
「怖がりだから、すぐ逃げてしまうかもしれませんよ」
「はい、わかりました。気を付けます」
耳、尻尾、おでこ、あご、背中…言っては見たものの、どこを触れば粗相がないのだろうか。
パチン。
パチン。
マスターは振り向きざまに小刻みに指を鳴らしながら、自身がかけたジャズファンクにのって口ずさんだり、はたまたイントロクイズのように先にフレーズを言い当てたり、ハモリを入れたりして、自由にスウィングしている。
そして僕は猫に触るタイミングをハズした。
老猫はもう眠たいのか、欠けた右足を隠すように丸くなってうずくまっている。
若猫はステージから降りて、季節外れの風鈴が飾ってある壁をじっと見上げている。
その目線の先の、黒ばんだポスターを自分も見た。
もはや演奏している楽器が何かすらわからないくらいダメになっている。
「はい、おまちどうさま。ナポリタンです」
想像通り、フライパンの鉄まじりの焦げたナポリタンが出てきた。
「あとでコーヒーのサービスも出しますので」
「失礼ですが。このポスターのシミって全部タバコのヤニって事ですか?」
「ああ、タバコのシミだったり、パスタが飛んだ時の油だったりだねえ」
「良い感じですね」
へへ、とマスターは笑って、コーヒーポットの火をつけてからちょっと離れた椅子に座った。
そして自分の目を憚らず、また指を鳴らしながら自身の心の中のジャズと対話していた。
その隙を見計らって、僕は老猫の耳元にそばだてて小声で問いかけた。
「ここの暮らしは長いんですか?」
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