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結えていた髪を解き、駅のトイレで着替えを終えた私は制服を紙袋に詰め込みロッカーに入れる。百円玉を三枚、鍵を引き抜く。数時間後の私はどんな気持ちでこの扉を開くのだろう。
空に星が輝く前、薄闇の空。
昼と夜の間を沢山の人が行き交う。ざわめきと、笑い声、汗の臭い、一瞬香ってすぐに消える甘い香水の香り。一つ一つの瞬間が、すぐに私を通過しては消えていく。
目的地に近付けば近付くほど、他人の発する音は遠退く。攻撃性を持たないクリーム色の建物の入口で、私は足を止めた。
「桜乃ちゃん。今日はいつもより少し遅かったね」
「原田さん、こんにちは。少し用事が長引いてしまって…皆、今日も談話室にいますよね?」
「ええ、夕ご飯までは大丈夫よ。お母さんには…」
胸に提げられたネームプレートに生活相談員の文字が見える。心配そうに私を見つめる原田さんに沈黙のまま会釈を返した。私のとる選択肢は彼女が求めているものではないのだろう。
学校よりも幅の広い廊下の壁にはイベントやレクリエーションを報せるポスターや折り紙で作られた花や鳥が飾られている。まるで小さい頃に通っていた保育園のような雰囲気の先には、祖父や祖母と言って良い年齡の人々が各々時間を過ごしていた。
「遅くなってごめんね」
「…あぁ、さゆり!待ってたのよ。いつもより少し遅かったわね。学校で何かあったの?」
「ごめんなさい、授業で分からない所があったから先生に教えてもらってたの」
「五年生だと、少し難しくなってくるものね。でもさゆりはちゃんとお勉強してるから、テストでもきっと百点が取れるわよ。お母さん、期待してるからね」
今年で七十歳の多江さんの娘、小百合さんは小学校五年生の訳がない。特養には事務手続きの時、最低限しか足を運ばない事を私は知っている。
「そうだ!今日ね、折り紙したのよ」
そう言って多江さんはカーディガンのポケットから小さな折り鶴をいくつも取り出した。
オレンジや青、黄緑、ピンク…色とりどりのそれらは私の掌に乗せられていく。
つい数日前も、同じように鶴が掌に乗せられた。これも症状の一つなのだろう。
「上手に出来たからさゆりにあげようと思ってねぇ。さゆりはいつも良い子だから」
【そうしなければいけなかったんです。毎日監視されて、完璧な娘である事を強制されているみたいでした。…あの人の顔を見ると息が詰まるんです】
小百合さんの口から吐き出された本心は、多江さんの耳には届かない。もう一生、お互いの気持ちが伝わる事はないのかもしれない。それが良い事なのか悪い事なのかは、私には分からないし関係ない。
「ありがとう、おかあさん」
偽物の娘の笑顔に、多江さんは幸せそうに顔を綻ばせた。
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