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※
「桜乃ちゃん、帰るの?」
「はい。もう外も暗いので…また来ます」
背を向ける私の手が原田さんに引かれた。
「…なんですか」
「桜乃ちゃん。もうそろそろ、話してみない?最近は部屋から外に出るようになってきたし、話す事が色々きっかけにもなるの、だから」
言葉を連ねる原田さんの手を振り解きたかった。違うの、勘違いしないでよ。私はあの人に会いに来てるんじゃないの。
「あ、原田さん!」
明るい声が廊下に響く。スリッパを鳴らして駆けてきたのは一人の女性。
「聞きそびれてしまったんですけど、夜は映画の観賞会ってしますか?私楽しみにしていたんです」
「あ、ええ…やりますよ。千葉さんがお勧めの洋画のDVDを持ってきてくれたそうなので」
「そうなんですね!良かった。洋画なら字幕にしてほしいけど、皆には反対されちゃうかしら。目が良くない方が多いから」
「…穂積さん、あの」
原田さんの視線が私に向けられる。気まずそうに、可哀想なものを見る瞳は失礼だけれど正解だ。
「あら、貴女、ええと…」
「桜乃ちゃんですよ」
原田さんが私の名前を口にする。女性はきょとんと目を丸くして、首を傾げた。
「あら?そんな名前だったかしら。ごめんなさいね、最近物覚えが悪くって…」
息を吸って吐く。そんな当たり前の行為もうまく出来なかった。まだ冬には届かない季節なのに、指先が冷たくなって唇が震える。
彼女の言葉の一つ一つが呪いのように、私の動きを殺していく。
「わ、私、失礼します!」
やっとの思いで言葉を振り絞り、足の神経が切れても構わないほどに全力で走った。背を向けて、目を瞑り、来た道を駆け抜けた。カシャン!と背後に落ちた音に振り返ると、ロッカーの鍵がコンクリートの上に投げ出されている。
拾わなくちゃとしゃがんだ瞬間、涙が零れた。
冷たく固いコンクリートに落ちた涙は黒い染みになって、すぐに判別出来なくなる。
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