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暗い影が視界を塞いだ。しまった、と思った次の瞬間には、若い男の身体を弾き飛ばしていた。
顔が見えた。連続する瞬間を切り取った静止画を順番通りでなくバラバラに次々と見せられているように、まるで生命感の希薄な顔。銀縁の眼鏡。今どきの若い連中の流行りから逸脱した髪型。膝の出たチノパン。チェック柄のシャツ。連れはない。独りだ。きっと女性関係には縁がなく、同性との友人関係も希薄――そんな毎日を過ごしているに違いない。
銀縁眼鏡の若者が後ろによろけた。
私は若者の身体に手を伸ばし、腕を取った。
若者は体勢を持ち直し、転ばずに済んだ。
「大丈夫ですか。すみませんでした」
返事はなかった。
銀縁眼鏡の若者は下を向いていた。そのまま目も合わせず歩き去って行こうとする。
厭な何かを感じた。
若者の何とも言えない暗さが気がかりだったが、此処に引き留めておく理由もなかった。それにもまして、腹痛が限界だった。私は若者の背中をほんの一瞬だけ見送った。私の意識はもはや此処にはなかった。私の意識はコンビニのトイレに向けて飛んでいた。
「どこ見てんだよ」
巻き舌の声が凄むのを聞いた。
声のしたほうに視線を走らせると、さっきの若者が、崩れた身なりの不良じみた若者に胸ぐらをつかまれ、ビンタをされる瞬間だった。
「おい」
見えているはずなのに、何も見ていないふりの石田に向けて怒鳴った。覆面パトカーの窓ガラス越しに石田と目が合った。今まさに暴行事件が発生している最中を指差して叫んだ。「クソが漏れそうなんだ。頼むから対処してくれよ」
石田は「やれやれ」といったふうな面倒極まりない顔つきで赤色灯を取り出し、覆面パトカーの屋根の上に乗せた。申し訳程度にサイレンを短く鳴らし、赤色灯を二回転させた。石田が取った行動はそれだけだった。それからの石田は運転席から動かず欠伸するばかりだった。
肩をいからせた不良は歩道に痰を吐き出し、「こら」と雄叫びを上げてから、銀縁眼鏡の若者を突き飛ばした。不良は身を翻し、肩で風を切りながら来た道を戻って行った。
歩道に倒れた銀縁眼鏡の若者に手を差し伸べるべきだ。わかっているのに、私はそれを怠った。腹痛。そんな私的で些細な事象を言い訳にして。
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