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それは、かつては愛しい人の名前だった。
口にするたび、ささやかな幸せが胸を満たしてくれる、そんな――……
でも、今は。
「……タクミ」
自分を組み敷く男を見つめながら、早川蒼はその名を囁く。
ほっそりとした面立ちに、細く高い鼻梁。薄いが形の良い桜色の唇。綺麗な二重瞼を縁取る長い睫毛の奥には、かすかにオリーブがかった鳶色の瞳が濡れたように輝いている。
端的に言って、美しい男だと思う。コスプレじみたブリーチの銀髪も、この男のそれはむしろ似合って見えるほどに。
「なに?」
焦らすような男の問いかけに、蒼は無言の一瞥で応える。この状況で、こんな声色で、蒼がこの男の名を呼ぶ理由は一つだと解っているだろうに。
「そういうのはいいから……くれ」
男の唇を啄み、駄目押しとばかりに今度は舌先でちろりと舐める。さすがに焚きつけられたらしい男は、今度は自ら蒼にキスを求めると、深く唇を合わせながら「わかった」と低く囁いた。
「俺も……早く蒼と繋がりたい」
その扇情的な響きに不覚にも奥を疼かせながら、蒼はおもむろに寝返りを打つ。そうして自ら俯せになると、背後に回した手で男の屹立を掴み、その先端を自身の入り口へと導いた。手のひらにも熱いと感じられたそれは、より繊細な皮膚に触れた瞬間、焼かれるかと思うほどの熱を蒼に伝える。
「……蒼」
こめかみに口づけられ、肩越しに男を見上げる。すでに蕩け切った男の双眸が、まっすぐに蒼を見下ろしている。その、今となっては見慣れた男と目が合った瞬間、自分は一体何をやっているのだろうと、ふと蒼は思った。
こいつは、あの人じゃない。なのに――
「挿れるよ」
ついに男が、蒼の中に彼自身を進めてくる。空虚を持て余す孔が雄の質量に満たされ、途方もない充足感に蒼は喉を絞って啼いた。シーツに縋りつき、押し寄せる喜悦に耐えるもそれはすぐに溢れてしまう。
ほどなくして蒼の身体は、男の雄を貪るだけの哀れな肉塊と化した。
「い、いや、とける――ぁ」
そんな蒼をさらに追い詰めるように開始される小刻みな抽挿。肉と肉、粘膜と粘膜とが薄い膜越しに擦れ合う感触に、蒼の自制心はいよいよ追い詰められてゆく。
「あ、だめ――んっ」
いつの間にか胸へと移った男の手が、蒼の勃ち上がった乳首を指先で弾く。男の念入りな愛撫で感度を増したそこは、ささやかな刺激にも貪欲に応じてしまう。弾みで中の肉が締まり、より深く密着した粘膜が、雄の形と大きさとをまざまざと蒼に伝えた。
そしてそれは、やはり、蒼の記憶に残るあの男のそれとは似て非なるものだった。
それでも蒼は、あの男の名を呼ぶ。
記憶の底に辛うじて残るあの人の熱を、思い出を必死に掻き集めるかのように。
「あぁ……タクミ」
――本当に蒼はいやらしいな。
――後ろだけでこんなにイケるなんて。ほら、わかるか? お前の中、さっきからずっと痙攣しっ放しだ。あんまりイキ過ぎると、また失神するぞ?
――こんなに健気に吸い付いて。そんなに俺の形が好きか?
「す、すき……タクミ、あぁ」
そんな蒼の脳裏によぎる、ある光景。
バージンロードを遠ざかる白タキシード姿の広い背中。この光景を思い出すたびに蒼は、たとえ絶頂の最中でも悲しみと絶望とで泣きたくなってしまう。
わかっている。こんな痛みに、もう意味などないのに――
そんな行き場のない嘆きが胸を浸したその時、男が達した証が最奥へと注がれる。薄膜越しでもなお焼けつくような〝タクミ〟の熱を感じながら、蒼もまたしとどに精を吐く。痛みと悲しみ、そして悦びとに心を千々に引き裂かれながら。
そんな蒼の痩せた身体を、千切れた心ごと長い腕が抱き留める。
「蒼」
その声に、蒼の意識は現実へと引き戻される。かつてパンクバンドのボーカルも務めていたという男のハスキーなテノールは、しかし、あの人の蕩けるようなバリトンとは似ても似つかない。
「……シャワー浴びてくる」
身を捩り、男の腕からそっと逃れる。ベッドを降りて寝室を出ると、そのまままっすぐにバスルームへと向かった。
脱衣所で、鏡に映る自分と不意に目が合う。
背丈は一六〇強と成人男性にしてはやや低め。肉付きも良い方とはいえず、貧相な身体つきは昔から劣等感の種だった。顔立ちは、醜くこそないがお世辞にも目立つ方ではない――そう自分では思うのだが、他人、とりわけ女性に言わせればそれなりにモテる方ではあるらしい。が、いくら異性にモテたところでゲイの蒼には詮無い話だ。
それでも蒼は、自分の容姿をそこそこ気に入っている。あの人が、ベッドで何度も可愛いと褒めてくれたから。
シャワーを終えると、スーツに着替えるべく一旦寝室に引き取る。そうして身支度を終えてダイニングに移ると、キッチンからは早くもパンの焼ける匂いが漂っていた。見ると、すでにテーブルには朝食の準備が整えられている。程良くトーストされた食パンと、丁度よい焼き加減の目玉焼き、カリカリのベーコンをまぶしたシーザーサラダ。
「お疲れ! ご飯できてるよ!」
キッチンカウンターから顔を覗かせ、そう満面の笑みで告げたのは、さっきまで散々ベッドで求め合っていた蒼の恋人、霧島拓海だ。行きつけのカフェでナンパされたのをきっかけに付き合い始めた男だが、以来三年、これという波風もなくだらだらと関係が続いている。
会社勤めの蒼と違い、在宅でソーシャルゲーム用の音楽を作曲する拓海は、繁忙期以外は蒼の分の家事もこなしてくれる。まさに至れり尽くせりの恋人だ。ただ――
「んふふ」
「な、何だよ」
「うん。エッチの途中、蒼にいっぱい名前呼んでもらえて嬉しかったなぁって」
「……」
拓海の言葉にあえて聞かなかったふりを装うと、蒼は無言でテーブルに着く。
この男の物言いは、どういうわけかいちいち蒼を苛つかせる。何がどう気に障るのかと言われると、正直、答えに困るのだが――そうでなくとも会社勤めの蒼には、在宅勤務の拓海と違ってのんびりしている時間はない。無論、朝から下ネタで盛り上がる時間も。
「いただきます」
さっそくパンに手を伸ばす。パンと目玉焼きは見た目に違わないベストな焼き加減で、サクサクとしたパンの歯触りに黄身のクリーミーな味わいが絡んで美味しい。サラダも新鮮で、シャキシャキとした爽やかな食感が、寝覚めでぼんやりする頭にしっかり活を入れてくれる。
「お前、この食パンどこで買ってきた?」
「駅前に新しくパン屋ができたじゃない。あそこ」
「へぇ、美味いな」
やがて拓海もテーブルに着き、蒼の向かいで食事を始める。
「エッチ以外の時も……もっと、俺の名前を呼んでくれると嬉しいな」
その言葉に、蒼は食パンをちぎる手を止めて顔を上げる。はにかみつつも何かを訴えるような拓海の目が、じっと、蒼を見つめていた。
「……嫌だよ」
「え、どうして」
「みっともないだろ。学生同士のバカップルじゃあるまいし」
言い捨てると、蒼は残りの食パンを口に押し込み、早々に席を立つ。そのまま洗面所に向かうと、手早く歯を磨き、薄い髭を申し訳程度に当たって玄関へと向かった。
その背中に、拓海が慌てて追いすがってくる。
「何だよ」
振り返り、うんざり顔で答える。すると拓海は、少し照れくさそうに目を伏せると、どこか躊躇いがちに言った。
「こないだの話だけどさ、考えてくれた?」
「……こないだの?」
「指輪の件、だよ」
ああ、と蒼は溜息をつく。
そういえば先日、拓海にペアの指輪を買いたいだの何だのと言われていたのだ。結局スルーしたきり忘れていたが、拓海の方はしっかり覚えていて、しかも蒼の返答をずっと待っていたらしい。
「……欲しいのか?」
すると拓海は、アイドルのように端正な顔を子供のように綻ばせて頷く。女性が見れば十人中十人が母性本能をノックアウトされるだろうスマイルに、しかし蒼が懐いたのは、やはり言いようのない苛立ちだった。
「あれな、やっぱナシ」
「えっ」
満面の笑みが一変、ぽかんとなる拓海をよそに蒼は玄関に足を向ける。ペアリングなど、それこそバカップルのアイテムでしかないだろう。正式な夫婦でもない限りは。
そして蒼たちは、決して夫婦にはなれないのだ。同性である限りは――
そう。だから棄てたのだ。あの人も、僕を。
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