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その身に起きた不幸せ
島津の家の中は黒く悪意に満ちている。
それでも縁と言うものは良くも悪くもいつの間にか絡まってしまった糸のように、じわじわと彼を苦しめ離さない。
「……響生(ひびき)さま、お食事の時間です」
小さな声で彼はドアの向こうで囁いた。少年が部屋から出れば静かに頭を下げている。同じ年頃である彼はいつも少年の数歩後ろを歩く、それはまるで自らその存在を消そうとしているような……。
食堂では母と彼の弟も席につきそれはそれは醜いものを睨みつけるように、ずっと彼から目を離さない。彼は少し震えて、黙って食堂から姿を消した。母は深くため息をついてその背中に向かって吐き捨てるように呟く。
「汚らわしい」
***
いまや時代は豊かになりつつある。しかし人の心というものは戦後の貧しい頃からそこまで変わってはいないらしい。
大手製薬会社の御曹司、島津響生は今年十六歳の高校一年生。中高一貫の進学校に通っていて、成績は優秀で文字通りの文武両道。しかし彼が気になるのは別にそんなことではない。
「響生さま」
授業終わりの午後四時に、小さく手を振りながら校門の前で待っている。色白で服の上からでもわかるくらいの小柄で華奢な身体をした青年。成長期の響生との身長差はもう二十センチ近くあるだろう。
「深鈴(みすず)、待たせたな」
市川深鈴は響生の一つ年上だが、中学卒業後は高校に進学しなかった。いや、させてもらえなかった、の方が正しいのだろう。深鈴はその手を伸ばして響生の鞄を持とうとするが、響生は深鈴に荷物を持たせない。彼にとって大切なのはこの時間だった。勉強など関係ない、ただ迎えの深鈴と二人で歩く帰り道が。
「鞄は重いから、家の近くまでは俺が持つよ」
「お疲れではないですか」
「それは俺の事情だ、お前が気にする事じゃない」
同居している島津の家では多忙な父に代わり、母の頼子が目を光らせている。彼女は深鈴を良くは思わない、その理由はわからないでもないが。
「深鈴、少し寄り道して行こうか」
「試験前ですよ」
「だから余計に家には帰りたくない、それこそただ暇を潰したいだけの母さんの相手なんかしていられないし」
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