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深鈴は少し戸惑った顔をして、黙って響生の後をついて歩く。住宅街を抜けたら河川敷に出た。秋の風景は風が連れてくるもの、一年を通して今が一番気持ちの良い季節だ。
「深鈴、おいで」
人の目を盗みながら響生はそっと深鈴の肩を抱き寄せる。また痩せたようなその感触に思わずぎゅっと力を込めて。
「い、痛いですよ……」
「深鈴、あと二年だ、二年したら一緒に家を出よう。もう少しだけ待ってくれ」
「……響生さま」
このがんじがらめの世界から、必ず外へ深鈴を連れて行こう。その決意は日々熱く、響生の心に灯っている。深鈴の人生、その身に起こった不幸を思えば。
***
「作り直しなさい!」
「す、すみません奥さま……」
理由は些細な事だった。スープが少し冷めていたとか、パンが少し焦げていたとか。ただ頼子は深鈴に文句をつけて発散したいだけなのだろう。怯える深鈴は慌てて皿を片付けて、そのまま台所に入って行く。
響生は何も言えないまま、その背中を見送ることしかできない。響生の隣の席の弟の順彌(じゅんや)は何が面白いのか、声を立てないように笑っていた。
「深鈴」
その日の深夜、試験勉強をしている響生のもとに夜食だと言って梅干しのおにぎりと貝の味噌汁を持って来た。深夜とは言え夜明けはもうすぐ、深鈴の朝は早いのだろう。
「俺のことは気にするな、お前はもう休まないと」
「これくらいしか僕にできることはありませんから」
皿の乗った盆を机に置いた深鈴を響生はそっと抱き寄せた。慌てる深鈴にそっと頬を寄せる。荒れて冷たい指先をその手で包んで、耳元で静かに囁いた。
「おいで」
「あ……」
しかしそれ以上は進むことなく、二人はただただ身を寄せ合っているだけ。響生はプラトニックな関係でもよかった、ただその体温を感じられるのならば。その感情を察したのか深鈴は黙って手を握り返した。
***
「深鈴!」
「はい、奥さま……」
朝を迎えて今日も深く頭を下げる深鈴のついた手を踏みつける。痛いと言えば彼女の怒りが加速するから、深鈴はぎゅっと歯を食いしばって耐えていた。その手は昨晩響生の包んだものだ。
頼子はひたすらに俯いたままの深鈴がさらに気に入らないのか、呪いの言葉を小さく吐き捨てた。
「あの人もどうしてこんな子引き取ったのかしら……妾の子なんて目障りなだけなのに」
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