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怒鳴られて震えながらも深鈴は床掃除の雑巾掛けを繰り返した。朝から晩まで響生が学校から帰宅しても深鈴はいつもそんな様子で、彼は小学校すらまともに通わせてはもらっていない。寝起きはいつも納戸の片隅で、温かい布団も与えられないどころか食事だって……その証拠に深鈴はひどく痩せていて顔色も悪い。
響生にとっては当たり前のものが、深鈴にとっても当たり前ではないのだ。
その日、珍しく朝から頼子の機嫌は良かった。何でも気に入っているクラシックコンサートの券を手に入れたと言って、コンサートがてら友人と食事に出かけるらしい。家の前に止まっていたハイヤーが音を立てて走り去る。
家政婦も買い物に出かけ、幼い順彌は幼稚園。たまたま学校行事の関係で家に残されたのは響生と深鈴だけだった。そっと響生が自室から出ると縁側では深鈴が掃除をしているものの、その様子がどこかおかしい。触れたこともないその背中に触れると、深鈴が力なくその場に崩れ落ちた。
「み、深鈴?」
「だいじょうぶ。な、何でもありません……」
うずくまった深鈴の頬に触れると熱があるようでひどく熱い。蒼白の頬に潤んだ瞳だけが赤く、全然大丈夫には見えなかった。
「誰か、医者を」
「駄目ですよ、響生さま……奥さまに怒られてしまいますから」
深鈴は響生の腕を優しく振り払い、無理に作った笑顔でまた掃除をし始めた。幼い深鈴の体調不良、誰だって気づいているはずだ。見ればわかるその姿は誰も気にしないで、いや、気づかないふりをするしか無かったのだ。皆雇われの身で、頼子の執念に恐れている。我が身の保身に必死でしかし皆生きていくためにはそうするしかない。父に本当に愛された女性の子供は、響生と順彌に似てもいなかった。
***
泣いてはいけない、これも運命。
深鈴の心は誰に何を言われても痛まないわけではなかった。ただ彼の実母がいつもどんなことがあっても笑顔で交わす人だったから。一度だけ母と島津の家のそばまで行ったことがある。大きな屋敷からはクラシックのレコードが流れていて、手をつないでいる母が涙を堪えていたことを思い出す。
「泣いてはならないのよ、深鈴。あなたは強く生きて行きなさい」
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