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序
その線路は、かつて旧日本陸軍鉄道連隊によってつくられたものだった。
台地の分水嶺に沿ったルートをとり、橋もトンネルも一切ないという特徴を持つ。また、様々な状況での路線敷設演習がなされた結果、全体的にカーブが多いものとなった。始発から終点まで、直線で結べばおよそ一五キロの距離に過ぎないが、線路は倍ほども長い。
敗戦後、鉄道連隊の解体を経て民間へ払い下げられてから数年。旅客線として生まれ変わった現在もおおよその姿は変わらない。田畑や黄色い向日葵を眺めつつ、電車は足元から蜃気楼となり、ゆらゆらと曲がりくねりながら駆け流れていく。
車窓から射し込む光に、色素の薄い睫毛がふるえた。ひとりきりの車両で、少女はゆっくりと群青色の瞳をひらいた。
右のこめかみにハンカチを当てたまま、いつの間にか寝てしまっていたらしい。ずきずきとぶり返してきた痛みが、稲羽瑠璃子の意識を少しずつ覚醒させていく。
「これ、は……」
怪我?
……そうだ、怪我をしたのだ。
ひとり道を歩いていたら、嗄れた声で「鬼畜米英」と言われた。反射的に振り向いた瞬間、石礫が飛んできて、ガツリとこめかみに当たってしまった。
いくつも投げつけられる石。持っていた鞄で頭部を庇い、うずくまって耐えているうちに、その人はどこかへ行った。こちらも逃げるように駅へ向かい、そして電車に乗ったのだ。……
瑠璃子は長い黄土色の髪からハンカチを抜き出し、無感動な目で観察した。白い布地に真っ赤な染みができている。
まだ血は止まっていないのだろうか。鏡など持ち歩いてはいないので、怪我の具合を見ることができない。おとなしくもう一度押さえておくしかなかった。
ぼんやりと向かいの車窓を眺めた。青い瞳の中で、見知らぬ風景がごうごうと入れ替わっていく。
「……?」
不意に瑠璃子は瞬きをした。
――何かがおかしい。
何かがわからない。
そう、わからないのだ。
「……わ、たし……?」
思い出せない。
この電車は。
この電車は、どこへ向かっているのだろう。
「……わたしは……」
ずきりと傷が痛む。
電車が揺れるごとに表情が歪んでいく。
駅に来て、電車に乗って。
怪我をしていて。
それでも引き返すことなく。
一体、どこへ行こうとしていたのだろうか。
「……、……、……」
……どこへ。
一体、どこへ行けばいいのだろうか。
どこへ、どこへ、どこへ……。
「……」
小さな駅に停車した。
一組の客が乗り込んできた。母親に連れられた幼子が、瑠璃子を発見し、物珍しさを隠しもせずに指差して言った。
「母ちゃん! 見てぇ、アメリカ人」
若い母親が、こちらに聞こえないほど鋭く小さな声で叱責すると、子供は「ひ」と、恐がったのかいじけたのかわからない声を出した。
母親は、腹話術の人形のようにだらんとした子供の手を強く引き寄せ、まるで路傍の吐瀉物でも見るような目を向けてきた。それから迷惑そうに嘆息しつつ隣の車両へ移って行った。瑠璃子はまたひとりきりになる。
電車が動き出し、白いブラウスの華奢な肩もガタガタと上下した。
膝の上の鞄を抱え直すふりをしながら目線を落とす。青ざめた顔を、黄土色の髪が揺れながら覆い隠した。
次の駅に着き、立ち上がると、くらりと目眩がした。
ひどく重いような鞄を肩から提げる。こめかみを押さえたまま、もう片方の手を壁につき、無理やり駅舎を出た。
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