16人が本棚に入れています
本棚に追加
胸を押さえた。酷く冷たい。ばくばくと脈打って、氷水の激流が体中に巡っていく。
京作がこちらを見た。唇が動いている。るりこちゃん。どうしたの。るりこちゃん。
「……いや……」
がたがた震える。
足腰の感覚が失せる。
黒い着物にしがみつく。
眼を痛いほど見開いて、ひとりの人物を凝視する。
背の高い、スーツ姿の男。
当惑したように立ち尽くしているのがわかったが、その表情も、体も、真っ黒な何かに塗りつぶされて見えなくなっていく。
残ったのは、ただ人の姿かたちをした色の濃い影だけだ。
それが。
どうしようもなく。
――恐ろしい。
「瑠璃子ちゃん!」
ぐっと正面を向かされる。
すぐ目の前に、この世にただひとつの黒い瞳があった。まっすぐに瑠璃子を見つめている。
乾いた熱い手のひらが、左右からしっかりと顔を包み込んでいた。群青色の瞳が大きく揺らぐ。
「瑠璃子ちゃん。瑠璃子ちゃん、聞こえるか。僕がわかるか」
「ああああ――男の人、が。知らない人が、そ……そこに」
「知らない人じゃない。あれは魁君だ。君の味方だ」
「みか、た……?」
「ああそうだ、味方だ」
「……」
「……大丈夫。大丈夫だよ。ここには君に危害を加える人なんていない」
「……」
視界が斜めに一周するほどの目眩のあと、京作の腕のなかにどっと倒れ込んだ。
彼に触れたところからじわじわと体温が戻っていく心地がする。あれほど鳴り響いていた心臓の音も、やがて静かに遠のいていく。
その代わりに、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。
びくりと肩が跳ねる。黒い衿元に顔を埋め、縋りつく手に力を込めた。
「……親分。急にどうしたんだ? お豆腐の奴、俺に轢かれかけたのがそんなに怖かったのか」
「いや……そうじゃないよ。怖がっているのは君じゃない」
「は?」
「同じだ。この子には以前からこういうところがあった。記憶を取り戻す前に、その感覚だけが呼び起こされてしまったみたいだ」
「……? なあ、もうちょっとわかるように言ってくれよ」
「僕が悪いってことだよ。……油断してしまったんだ。昨日、察馬先生と菊さん、そして魁君にもすんなり引き合わせることができたから。もしかしたら大丈夫なのかもしれないと思ってしまった。……何も覚えていないからといって、負わされた傷まで都合良く消えるわけがないのに。悪い夢を見たと訴えてきた時点で、気づいてあげるべきだったのに」
京作は、抱きしめた瑠璃子の頭に初めて触れた。
躊躇いは抜け落ちていた。その手のひらは、彼の高い体温、そして悔恨と哀情だけで形づくられていた。
ゆっくりと優しく撫でる。幼い子供をあやすように、何度も、何度も。
波打つ黄土色の髪に埋もれながら、群青色の瞳は音もなく涙を落とし続けた。
誰のものかもわからない涙を。
「――この子は、人が怖いんだ」
最初のコメントを投稿しよう!