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 胸を押さえた。酷く冷たい。ばくばくと脈打って、氷水の激流が体中に巡っていく。  京作がこちらを見た。唇が動いている。るりこちゃん。どうしたの。るりこちゃん。 「……いや……」  がたがた震える。  足腰の感覚が失せる。  黒い着物にしがみつく。  眼を痛いほど見開いて、ひとりの人物を凝視する。  背の高い、スーツ姿の男。  当惑したように立ち尽くしているのがわかったが、その表情も、体も、真っ黒な何かに塗りつぶされて見えなくなっていく。  残ったのは、ただ人の姿かたちをした色の濃い影だけだ。  それが。  どうしようもなく。  ――。 「瑠璃子ちゃん!」  ぐっと正面を向かされる。  すぐ目の前に、この世にただひとつの黒い瞳があった。まっすぐに瑠璃子を見つめている。  乾いた熱い手のひらが、左右からしっかりと顔を包み込んでいた。群青色の瞳が大きく揺らぐ。 「瑠璃子ちゃん。瑠璃子ちゃん、聞こえるか。僕がわかるか」 「ああああ――男の人、が。知らない人が、そ……そこに」 「知らない人じゃない。あれは(さきがけ)君だ。君の味方だ」 「みか、た……?」 「ああそうだ、味方だ」 「……」 「……大丈夫。大丈夫だよ。」 「……」  視界が斜めに一周するほどの目眩のあと、京作の腕のなかにどっと倒れ込んだ。  彼に触れたところからじわじわと体温が戻っていく心地がする。あれほど鳴り響いていた心臓の音も、やがて静かに遠のいていく。  その代わりに、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。  びくりと肩が跳ねる。黒い衿元に顔を埋め、縋りつく手に力を込めた。 「……親分。急にどうしたんだ? お豆腐の奴、俺に轢かれかけたのがそんなに怖かったのか」 「いや……そうじゃないよ。怖がっているのは君じゃない」 「は?」 「同じだ。この子には以前からこういうところがあった。記憶を取り戻す前に、その感覚だけが呼び起こされてしまったみたいだ」 「……? なあ、もうちょっとわかるように言ってくれよ」 「僕が悪いってことだよ。……油断してしまったんだ。昨日、察馬先生と菊さん、そして(さきがけ)君にもすんなり引き合わせることができたから。もしかしたら大丈夫なのかもしれないと思ってしまった。……何も覚えていないからといって、負わされた傷まで都合良く消えるわけがないのに。悪い夢を見たと訴えてきた時点で、気づいてあげるべきだったのに」  京作は、抱きしめた瑠璃子の頭に初めて触れた。  躊躇いは抜け落ちていた。その手のひらは、彼の高い体温、そして悔恨と哀情だけで形づくられていた。  ゆっくりと優しく撫でる。幼い子供をあやすように、何度も、何度も。  波打つ黄土色の髪に埋もれながら、群青色の瞳は音もなく涙を落とし続けた。  誰のものかもわからない涙を。 「――この子は、人が怖いんだ」
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