海神の末裔

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2、  船を(あら)う波の音と揺れが、意識にこじ入ってきて、タルスはうっすらと目を開けた。たちまち激痛が甦り、呻き声が洩れる。 「あ、気づいた」  痛みで滲んだ目を向けると、覗き込んでいる顔に焦点が結ばれた。あの黒人男娼だった。男娼は求めるままに、タルスに水を飲ませてくれた。角灯とおぼしき柔らかな明かりが、波のうねりに合わせて揺らぎ、念入りに化粧をほどこされた蠱惑的な(かんばせ)に影を躍らせている。 「……ここは?」  タルスは、交易船の中で覚えたばかりの南方語で訊いた。 「〈鳥影丸〉だよ」  それで凡てが判るだろう、というように素っ気ない。少し厚ぼったい唇が堪らなく艶かしいだけに、いっそう小癪な印象である。  それでもどうやら己れが船の上に横たえられていることは認識できた。首を起して見回してみればそこは、五、六人ほどが定員の小型帆船の(とも)で、船は波の穏やかな外海を、陸風を受けてゆっくりと移動しているようだった。タルスの左の腕と肩には、応急手当としてぼろ布が巻かれていた。 「傷口は釣り針と糸で縫ってあるよ。運良く健も骨も痛めてないみたい。安静にしてればくっつくんじゃないかな」 「あんたが助けてくれたのか?」  ふん、と黒人男娼は鼻を鳴らした。 「俺はうっちゃっておけ、って云ったんだ。でもヴェリタスが一緒に連れて行こうって……」 「シス」  操船をしていたもう一人の男が、舳先からやって来た。  一見して船乗りと判る格好の青年だった。茶色い巻き毛の美丈夫で、いかにも海の男らしい浅黒い肌の持ち主だが、精悍さよりも、落ち着いて柔和な、学者のような雰囲気を纏っていた。 「先ずは礼を申し上げる。貴方の助力がなければ、リューリクからの脱出は叶わなかったろう」  青年が丁重に感謝を述べた。言葉遣いから、青年が裕福な家柄の出自であると推察された。よく見れば着ている物もみな上等で洒落ており、そこらの水夫とは明らかに違う。 「私はバルン島のヴェリタス・セルベディエン。此方はリューリクのシスだ」 「タルスだ。北からやって来た。セルベディエンという名には聞き覚えがあるが?」 「ヴェリの家はバルン島の領主様だよ」  シスの注釈にタルスは内心で唸った。  北大陸と南大陸の間に拡がるレンス海は、大小様々な島嶼がひしめく多島海域であり、各島々は独立した小王国のようになっている。バルン島は、タルスも往きに立ち寄った大きな島だ。交易の中心地であり、緩い同盟で結ばれた多島海域の政治権力たちの、盟主的な立場でもある。  しかし斯様な貴顕が、供も連れず刃傷沙汰に及び、あまつさえタルスのごとき流れ者や男娼と行動していることが、何やら尋常でない事情を垣間見させた。 「それでは行き先は、バレリア?」  バレリアはバルン島いちの都邑(まち)であり、尖塔と天幕ひしめく、レンス海有数の商都だ。セルベディエン家の本拠地で、豪奢な館が高台にそびえている。 「いや……」  ヴェリタスは云い澱んだ。 「タルス殿には申し訳ないが、この船はバレリアには向かわない」  それに、と加える。 「貴方を何処かの島に降ろすことも出来ない。追手に感づかれないために」  その思い詰めたような表情を見る限り、理由を訊ねても直ぐには教えて貰えそうになかった。しかし、寄港しないとなれば、痛み止めの薬湯もないまま、生まれ持った体力のみを頼りに過ごさねばならない。そこで違う角度の質問をした。 「あの刺客たちは、ただの物盗りではなかった。貴君がレンス海いちの若殿と知っての狼藉か?」  ヴェリタスは逡巡したが、シスの方が黙っていなかった。 「彼奴(あいつ)らは、司祭(カスパ)に遣わされたダルファル兵たちさ。普段から、小遣い稼ぎに銀貨で裏の汚れ仕事をしてるのさ。日の高いうちは〈聖なる金糸の魚〉を見せびらかして、威張り散らしてるのにね」  吐き捨てるようにシスは云い放った。  港湾都市リューリクは、建前は南大陸南東の王国ダルファルの支配に服していた。そのため、形式上の行政官として、王国から司祭(カスパ)が派遣されてくる。しかし、住民ーー商人と漁師ーーの殆どは内陸人ではなく、レンス海からやって来た海人族の末裔であった。つまり、実質は商人を中心とした自由民による自治都市なのだ。一定額の税を納めることにより、リューリク側もダルファル側も、双方が面子を保ちつつ冊封の恩恵に預かっているのだった。  が、当代の司祭(カスパ)はアスカランテといい、これ迄になく本国の権勢を嵩にきた専横ぶりだという。〈聖なる金糸の魚〉とは、ダルファルの、世界魚(ノーグ)を祀る密儀宗教を象徴する文様である。 「しかし、そのアスカランテという司祭(カスパ)も怖いもの知らずなのではないかな。いかに力を持っていようと、所詮はいち行政官にすぎぬ。貴君の御身に大事があって、よもやセルベディエン家と対立するような事態になればただでは済むまい」  タルスは動く方の手で、自らの喉を掻き斬る仕草をした。  だがヴェリタスは、暗い表情で首を振った。 「ところが、そうはならないのだよ。此度は彼奴に理があるのだ」  どうやら諦めて事情を話すことにしたようだ。 「アスカランテは、ただの司祭(カスパ)じゃない。元々、ダルファルの名家の放蕩児で、いち行政官にとどまらない財力と権勢を持っている。そしてーーシスを身請けした旦那でもあるんだ」  ヴェリタスのため息には、懊悩がまぶされていた。
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