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 二〇〇二年六月五日。東京都某所にあるその事務所は、取り壊し寸前の廃墟ビルの中にひっそりと存在していた。 助手の男が二つの資料を手に、固く閉じられたドアを叩く。三回ノックを二度繰り返してみても、中からの返事は無い。普段からその調子なのか、助手は躊躇なく扉を開ける。 まず目につくのは大きな四つの本棚に囲まれた部屋の中に、窓を背にしておかれた社長机擬きである。そしてその机の為に用意されたであろう椅子に全体重を預けながら、薄くも厚くもない本を見開き状態で顔に被せている男がいた。 「先生、寝てるんですか」  助手はその男を〈先生〉と称した。医師が病院に行かないはずが無いし、弁護士にしては書類が少なすぎる。 「そんなつまらない質問が出てくる口から、面白い話の一つや二つ飛び出ないもんかな」  第一声の煽り文句で苛立ちを覚えた助手は、無言で手に持っていた資料を置く。 「またわんこ達か。あっちから出される依頼で面白かったことなんて、一度かそこらじゃあないか。ねぇ、子供くん」 「小供(おども)です」  面倒だ、面倒だな。わざとらしく溜息を吐いてゆっくり椅子から立ち上がり、天然パーマらしき頭を掻きながら、男は手ぶらで部屋を出ようとする。小供は一度自身の手を離れたはずの二つの資料をもう一度手に取った。  部屋から出るとすぐ、大きなアンティークソファが二つ向かい合って置かれた、来客スペース兼助手の事務部屋に繋がる。ソファの間に置かれたあまりにも存在感のあるローテーブルには、男から見て左側に二つ、もう反対側に一つ、可愛らしい花柄のティーカップが置かれていた。 「公務員も大変だね、毎度僕のところに来るなんて」  世辞でも労えば良いものを。この男は良くも悪くも自分の感情に正直であった。  ―――さて、と。ゆっくり一口、時間をかけて紅茶を味わった後、男は目を瞑って余韻に浸りながら、閉じられた瞼の奥で自分から見て左側に座っている若男を見ていた。 「君は一体どこの誰だい」  若男はその声に少々怯む。誰かと問われた場合、名乗るのが正解なのか、どこに所属となっているかを伝えるべきなのか分からず、結果としてそれには隣に座る中年の男が答える。 「こいつはつい最近一課に所属になったばかりだ。お前にとって役に立つかは分かんねえが」  殆ど白く染まっている髪の毛を短く切り、座っていても体格の良さが窺える。スーツを無駄なく着こなしているためか、そこらの細い若者より大分若々しさがある。 「澤山透(さわやまとおる)といいます」  相手の男をどう呼べばよいか悩んでいるらしく、再び中年男は口を開く。 「美殿(みどの)義丞(ぎじょう)…先生だ。今朝話しただろ、探偵の」  いかにもゆとり世代を感じさせるような態度で澤山は頷く。洗髪していないだけ同世代よりもましだと言ったところか。 「君たちの警察という職業柄、僕みたいな人間に事件の解決を手伝ってくださいなんて言うのは大層屈辱的なことだとは思うけれど、まぁ今後よろしく頼むよ」  この義丞の言葉たちから器用に抜かれた〈無能〉という単語を澤山が察するはずもない。この場の空気になれたらしい澤山が改めて口を開こうとした時にはもう、義丞の視線は中年の男に移っていた。 「孝明君さぁ、またつまらない話でも持ってきたんでしょ。僕こう見えて暇じゃないんだけど」  塚本(つかもと)孝明(たかあき)という男、齢四十七年であるが、二十近くも下の男にこういった態度を取られることに抵抗が無いわけではない。しかし両者の関係はそれこそ十年以上前から始まっている。受け入れたというより、諦めたと言った方が正しい。
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