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じっさいのところ、私にとって彼の抱えた事情というのは別に重要なものではなかった。私にとって意味があったのは、世話をするべき対象ができたということ。そのおかげで、空っぽな自分自身から目をそらしていられることだった。
夕刻、祖父の残した作務衣を着て縁側に腰掛けて、彼はぼんやりと空を眺めていた。作務衣とか浴衣とか、古めかしい恰好がやけに似合う若者だった。
寒くない? と私が尋ねる。
大丈夫、と彼が答える。そして空を指さす。
「見えるかい? 僕はあそこから落ちてきたんだ」
もちろんそこには何もなかった。雲一つない澄んだ秋の空が、茜色に染まっているだけだ。
「やっぱり、帰りたい?」
私の何気ない質問を、彼は真剣に受け止めた。しばらく考えたのちに、
「自分がいるべき場所にいたいと思うよ」
そう言った。
私には帰りたい場所がない。いるべき場所だって無いんだと思う。好きな時代、好きな場所に戻れるとしたら、何も知らなかった子供のころ、まだ母が生きていた時代だろうか。でも、そこからまた同じ運命を繰り返すなら、過去に帰ることに何の意味があるだろう。
「そういえば、名前は?」
「サブリエル」
「天使っぽいね」
「天使だからね」
「でもサブちゃんて呼ぶね」
「ちょっと、大御所演歌歌手じゃないんだからさ」
「居たいだけ、ここに居ていいからね。居てほしいって、私が思うから」
私が彼の立場だったら、きっとそんなふうに言われたい。そう思ったことを、私は口にした。
彼は目を丸くして私を見つめた。顔をそらして、不意に立ち上がった。屋内の明りが届かないところまで庭を歩いて、しばらく暗がりの中で顔をこすったりしていた。
男の人って、こんなに不器用な泣き方をするんだな。
私は立ち上がって、声をかけずに部屋に戻った。
あの寂しい背中を抱きしめたい。火がともるように現れた、そんな自分の気持ちに戸惑いながら。
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