落とし物

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 ぬか喜びさせてごめんね、とあーちゃんに謝罪する気持ちで一杯だった私は、 「前川と、毎週話してるの?」 というあーちゃんの少し不機嫌なセリフの内容が、いまいちピンと来なかった。 「え、ぁあ…挨拶はちゃんとしてるよ」  言い訳じみた言い方をしてしまう。  私のレッスンが終わり次第、前川君のレッスンが始まる状況であり、話し込むような時間は元々ない。  だから、 「前川、良い奴だよな」 あーちゃんにそう言われても、何とも返事のしようがなかった。 「そうだね?」 と、当たり障りのないコメントをしてあーちゃんの様子を見る。  明朗なあーちゃんは、およそ誰とでも仲良しだ。私に気を配りつつもなかなか私の傍にいないのは、皆に慕われているからであり、頼られているからだった。そういうあーちゃんを私は誇りに感じていたし、『皆のあーちゃん』が私を特別に扱ってくれることが素直に嬉しかった。 「前川と、どんな話すんの?」  まだ前川君の話題を続けるのか…と少し気が重くなったことは心の中だけに留める。  週に一回、挨拶してすれ違うだけの人物について話せることなど、針の先程もない。それでも、前川君があーちゃんの中でポイントが高いらしい事実を無視はできなかった。 「えーっと。…話かぁ…。あ、アニメの主題歌がカッコいいって話したよ」  一ヶ月近く前の話題を何とか思い出す。これ以上掘り下げないでほしい…そして広げないでほしい…密かに祈る。 「アニメって、KIMETSU? 若菜、弾けるの? 聞きたいっ」 「じゃ、練習するよ。楽譜はこれからだし、練習する時間も欲しいから、ちょっとまだ先になるけど」  話せる話題に転換した上、あーちゃんの声音もカラッと明るくなり、私は解放感で一杯だった。  この間開演されたばかりの映画版の主題歌が良いと言われ、笑顔で了承する。全てがうまく落ち着いた、これ以上ない着地地点だった、と、私は安直にホッとしていた。  だから、楽譜は俺が買うと言ったあーちゃんの冷たい表情に、過剰にヒヤリとしたのかもしれない。
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