僕の人生の物語

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「お前の人生は俺のものだ。だから、返してもらう」  男にそう言われたその瞬間、僕はそれが自分に向けられた言葉だとは思わなかった。だから、僕はそのままその男の隣を通り過ぎようとした。妙な独り言をつぶやいている人がいるなと、そう思いながら。  すると男は通り過ぎようとする僕の肩をつかんで言った。 「おい、とぼけるな」 「え?」あまりに唐突なことで、僕は思わずそう聞き返す。 「わかっているだろう」男はそう言って睨む。  しかし、目の前の男には全く心当たりがなかった。これは何かのドッキリなのだろうか?見知らぬ男が、人生を返せと迫るドッキリ。いったい誰が見たいのだろう。だが、一向に仕掛け人が登場する気配はない。  ドッキリじゃないとすれば、人違いか、もしくは頭がおかしいかだ。どっちにしろ、面倒くさい状況だ。つい先ほどまで、大学に居残ってレポートを仕上げていた僕は、心身ともにへとへとで、一刻も早く下宿先のアパートに帰りたかった。こんな男にかまっている暇はない。 「人違いだと思いますよ」僕は男の手を振り払いながら言った。  すると、男は不気味に笑った。馬鹿にしたような、憐れむような、そんな表情で。 「わからないんだな。鈍いやつ」  男の態度に僕はいらだった。僕が通うN大学は名の知れたエリート校だったし、大学内での僕の成績はトップクラスだ。こんなわけのわからないやつに馬鹿にされる筋合いはない。 「なんなんですか」僕は男を睨み返した。  改めて男を観察すると、上下ともに灰色のスウェットを着ていて、長い髪はいたるところに寝ぐせがついていた。その姿は典型的なニートを連想させる。 「じゃあ、名乗ってやるよ。俺は、篠塚だ」  その名前を聞いた瞬間、僕の脳は混乱した。どういうことだ——?その問いばかりが頭の中を駆け巡る。冷静にならなければ、と思えば思うほど、何も考えることができなくなってしまう。  気が付いたら、僕は走り出していた。  これが最善なのかはわからなかった。だが、この方法しか思いつかなかった。  あの男から遠ざからなければならない。強迫観念じみたその思いだけが一歩踏み出すごとに強くなっていく。  背後から男の声が聞こえるが、もう何を言っているのかはわからない。  僕は夢中で走りつづけた。  下宿先のアパートの近くまでたどり着いた時、背後に男の姿はなかった。  ふらつく足取りで自分の部屋への階段を上る。  鍵を開け、玄関の扉を閉めてはじめてほっと一息つくことができた。  しかし、僕の胸の内には不吉な予感が渦巻いていた。  あの男の登場によって僕の日常はめちゃくちゃにされる——。
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