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「君、この公式の説明できる?」
目の前で講義をしていた教授が尋ねてきた。しかし僕は昨日の男のことで頭がいっぱいで、授業の内容は全く頭に入っていなかった。
「分からないです」僕はうつむいて答える。
「そうか」
教授は少し驚いたようにそう呟いたが、すぐに僕の後列の生徒に同じ質問をして授業は進んでいった。僕は常に授業を最前列で受け、質問にもほとんど完璧に答えてきたので、こういうことは初めてだった。
思わず、深いため息がでる。
全部、あの男のせいだ。
早く何とかしなければ——。
気が付けば、教室には人がほとんど残っていなかった。どうやらいつのまにか授業は終わっていたらしい。
「篠塚君」
背後から自分を呼ぶ声がする。それはあの男が名乗った苗字と同じだった。
声の主は、振り返らずともわかっている。
「もう授業終わったよ?」
梶原玲奈が笑って手を振りながら近づいてくる。学部の同級生で、同じゼミに配属されてからよく喋る仲になった。今日はブラウンのニット黒いスカートといった服装で、いつものようによく似合っていた。
「どしたの今日は。らしくないじゃん。いつもはずばずば答えるのにさ」
玲奈は言いながら僕の肩をぽんと叩いた。これは彼女なりのコミュニケーションだが、僕はついどきまぎしてしまう。
「別に、何でもないよ」思わずぶっきらぼうな口調になってしまった。
「あれれ?不機嫌だね。何かあったの?」
玲奈は別段気を悪くした様子もなく、むしろ面白がっている様子だ。
「まあ、ちょっと卒論がうまく進まなくてさ、そのこと考えてた」
「へええ。篠塚君でもそんなことあるんだ。じゃあ、4限のレポートももしかして終わってない?」
「それは終わってるけど」
「お願い!ありがとう!」玲奈は体の前で両手を合わせて言った。
「貸せってこと?まだいいとは言ってないよ」
玲奈はいたずらっぽく笑いながらうなずいた。
その笑顔を見ながら、僕は改めて日常の大切さを痛感していた。この日々を守れるなら何をしたってかまわない——。
僕は苦笑しながら、リュックからレポートがしまってあるファイルを取り出す。
そのとき、一緒になって財布も落ちてしまった。
小銭やポイントカードなどの財布の中身が床に散らばる。
「ありゃりゃ」
玲奈はかがんで落ちたものを拾おうとする。
「あれ?」玲奈が呟いた。
その手には僕の運転免許証が握られていた。しまった。心臓がどきりと跳ねる。
「これ、名前が違うよ?矢野健吾って、誰?でも写真は篠塚君だね……」玲奈は首をかしげながら言った。
「返して」
僕は慌てて玲奈の手から運転免許証をひったくる。
まずい。
見られてしまった。
「これ、名前を間違われてたみたいでさ、修正しに行かなきゃいけないの、忘れてたんだ」
僕は残りのものを拾いながら答える。玲奈の顔は見ることができなかった。
「ふーん」玲奈は不思議そうにそう呟いた。
「用事あるから、これで。あ、レポートは貸すよ」
僕はそう言って玲奈にレポートが入ったファイルごと押し付け、速足で講義室のドアへ向かった。
「あ、ちょっと」
玲奈の引き留めるような言葉が聞こえたが、僕は聞こえなかったふりをして講義室のドアを閉めた。
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