エイス

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「その気分は分かった上で、だ」  ミッドは、ラトスの懐を指差して言った。  ラトスはミッドの指先をにらむようにしばらく見ると、ゆっくりと大男の顔に目線を向けた。 「まず、依頼を受ければ、城に出入りする機会を得られるだろう?」  にらむラトスの視線を無視して、ミッドはそう言うと、埃のつもったテーブルを指でなぞって円をえがいた。城のつもりなのだろう。それを指しながら説明をはじめた。  まず、自分たちのような下流区画を出入りする者は、城には入れない。城に住む者、勤める者はみな、王族か貴族なのだ。生きている世界が完全に違うのである。城仕えの下女ですら、貴族の端くれだった。  エイスの国では、貴族以上の者は強く保護されている。一般人は許可なく近付くことも声をかけることも出来ない。王侯貴族が城外に出るときは、多数の護衛に囲まれる。隙は一つもない。それほど厳重なのに、用もなく城内に侵入するなど、もっての外だ。何もできずに、すぐ殺されるだろう。  だが、この馬鹿げた依頼を受ければ、交渉事や情報交換などで城に入ることができるだろうとミッドは太い腕を組みながら言った。それはそうだろうと、ラトスはにがい顔をしてうなずいた。依頼の内容的に、城外で交渉するなど絶対にあり得ないことだ。 「ラトス。それは、城の外では何も出来やしない」  ミッドはもう一度ラトスの懐を指差して、少し強い口調で言った。  その言葉にラトスは顔をしかめ、懐に手を当てた。受け取った小さな紙に書かれている文字、≪黒い騎士≫というのは、城仕えの騎士のことに違いない。  ラトスが知るかぎりでは、エイスガラフ城には、「黒の騎士団」と呼ばれる暗部の騎士団があるという。だが、その騎士団が本当に存在するかどうかは不確かなものだった。実際、噂程度も知られてはいない。ラトスとミッドがこの騎士団のことを知っているのは、単に幅広く国内外に諜報活動をおこなっているからだ。このようなことを城外に生きる一般人が細かく調べることなど普通はできない。  普通はできないことを駆使して、やっとの思いで騎士の位である貴族が、妹を殺したと分かったのだ。ラトスはここで、足踏みはしたくはなかった。  しかしミッドの言う通り、ラトスが心に秘めている復讐を果たすためには、いくつかの段階が必要だ。最初の一歩として、城中深くに身を入れなければならない。そこまでしなければ、≪黒い騎士≫とやらが、本当に騎士なのかどうかをふくめ、それが何者なのかをはっきりと調べることなどできないだろう。完全な部外者のままでは困難をきわめるに違いないのだ。 「そうだな」  ラトスはしばらく考えていたが、やがてうなずいた。 「馬鹿もやらなくては」  ラトスは声を低くこぼして、ゆっくりと立ち上がる。  身体を動かしたいきおいで、再び埃が舞いあがった。光に照らされながら左右にチラチラとゆれる。  ミッドはしばらく、立ちあがったラトスを見なかった。光の中を踊っている小さな埃を見ていた。やがてそれは光からはずれ、テーブルの上に落ちて見えなくなった。そのテーブルにミッドがえがいた円をラトスが指差した。ミッドはその指先を見て、目をほそめた。 「必ず、殺すためだ」  殺意の言葉を隠さず、ラトスは無表情なまま言い切った。  その瞬間、ラトスの色褪せた世界に、黒い靄のようなものがかかりはじめた。  立ち眩みだろうかとも思ったが、そうではないようだった。黒い靄は視界をうばうようにして広がっていくが、ふらついたりするような感覚は身体にあらわれなかった。やがて、頭の中と胸の奥底でも、黒い何かがにじみでてきて、ゆっくりと渦巻きはじめるのを感じた。  思考が黒く塗りつぶされていく。   突然の現象にラトスは少し驚いたが、これは自分の望みそのものなのだと思った。    このまま、黒く染まってしまえばいい。  頬の傷を引きつらせながら、ラトスの瞳は鈍く輝くのだった。
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