オーバーホールは二人で

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 水の音しか聞こえない。もしかして、自分以外の人間が滅んだのではないか――なんて、被害妄想もいいところだ。  自嘲して視線を上げると、くすんだ景色の数メートル先にぼんやりとした暖色の明かりが灯っている。  二階建ての白っぽい建物で、一階は雑貨屋だろうか。店主と思しき男が古めかしい扉にかけられていた衣服やプレートを忙しなく中に取り込んでいる。  なんとなく気になって、穂高は吸い寄せられるようにふらふらと近づいた。 「ひっ」  入口に立てかけられたアンティーク調の全身鏡に怨霊のようなものが映り込み、思わず小さく悲鳴をあげた。それが濡れ鼠となった自分だということに気付いたときにはすでに足を滑らせていて、踏ん張りのきかない身体は水溜まりへと顔から突っ込んでいく。 「――っと、何をしている」  ぎゅっと目を瞑った瞬間、強い力で腕を引かれた。驚いて見上げた先で、背の高い男が黒髪のあいだから仏頂面でこちらを見下ろしている。  黒いタートルネックに黒い細身のジーンズで、全身真っ黒だ。歳は二十代後半くらいに見える。凛々しく端正な顔立ちだが、不愛想なせいか威圧感が凄い。犬に例えるならドーベルマン一択だ。 「え、あ……すみません」  先ほど商品を店内に取り込んでいた男だ。ここの店主だろうか。穂高の全身に視線をやった男は、わずかに顔を顰めた。理由ははっきりしている。穂高の姿だろう。衣服が濡れて痩せ型の体型がはっきりわかってしまう上に、表情は失恋直後で陰気極まりない。  みすぼらしい姿を見せてしまって申し訳ない気持ちになり、穂高はぺこりと頭を下げて身を引こうとするが、掴まれた腕は離されない。むしろずるずると店内に引きずられていく。 「あの……?」  頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れで、店の床を汚してしまいそうだ。  おろおろしている穂高を一瞥し、店の奥に入った男はすぐに真っ白なタオルを持って戻ってきた。 「いえ、そんな、お構いなく」  無言で綺麗なタオルを差し出してくるものだから恐縮しきって断るが、男はそのままの姿勢でじっとこちらを見つめてくる。いや、どちらかというと睨まれているような気さえする。なんなんだろう、この人。  しばらく互いに微動だにせずにいたものの、永遠に続きそうな沈黙に穂高の方が根負けした。さっきから全然喋らないけど、雨宿りさせてくれているわけだし親切な人には違いない。タオルを受け取り、有難く使わせてもらうことにする。 「あの、ありがとうございます」  額に張り付いた髪の毛をガシガシと拭き、次いで顔を拭う。ふかふかと柔らかいそれは酷く優しい匂いがする。  水滴を次々に吸収していくタオルに顔を埋めた途端、隼人の家からここまで一向に姿を現さなかった涙が一気に溢れ出してきた。 「ふっ……う、うぅ……」  繊維が吸い取っても吸い取っても次々に流れてくる涙に、タオルがひたひたになってしまうのではないかと馬鹿なことを考えながら嗚咽を飲み込む。ずぶ濡れで突然泣き出した穂高に、店主も些か目を瞠っている。 「すっ、すみ、すみま、せん……っ」  ――これじゃ俺、完全に不審者じゃん……。  なんとか泣き止まなくてはとしゃくりあげながら謝る穂高の頭に、ぽんと温かい手が乗せられた。タオルから少し顔を上げると、男は困ったような顔で穂高の頭を撫でている。 「……今日は閉店だ。ゆっくり泣けばいいんじゃないか?」  低い声で一言告げて、男は店の入り口を閉めてしまった。レトロな雰囲気の衣服、雑貨、おもちゃがひしめき合う店内を片づけ始めた男の背中を見ながら、穂高は気が済むまで泣いた。
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