オーバーホールは二人で

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「あの、すみません、タオル……」  雨と涙と鼻水でとても返せる状態ではないので買い取ります、と言いたかったが、「寒いなら二階に風呂があるが」という言葉で遮られた。 「そ、そこまでご迷惑かけられません。今日は気温も低くないので大丈夫です」  ぶんぶんと首を横に振る穂高の手からタオルを回収し、代わりに店内にかかっていたスカイブルーのカットソーと濃茶のカーゴパンツを渡される。  どちらもさり気ないデザインだが、妙に肌触りが良く質の高さを感じる。服についているラベルを見ると、穂高もよく知っている有名ブランドの名が印字されていた。 「そこ入るとバックヤード」  店主は向かって左の扉を指してそれだけ言い残し、レジで精算を始めてしまった。 ――ど、どうしよう……。  穂高は服を持ったまましばらく立っていたが、男はそれ以上なにも言ってこない。自分も口下手な方だが、相手も無口すぎて余計に間が持たない。  居た堪れなくなって逃げるようにバックヤードに入り、一部だけ明かりのついた薄暗い部屋で着替える。  やがて出てきた穂高と入れ違いで、店主が部屋の奥に消えていく。  泣いて腫れた目元を冷たくなった指先で冷やしていると、急に部屋全体が明るくなった。中央の照明をつけたらしい。 「座れば」  小さなテーブルに丸椅子を二つ引き寄せて、その片方を店主が目顔で指す。手には二人分のマグカップ。足元では小型のヒーターがオレンジ色の光を発している。 「し、失礼します」  おずおずと着席すると、目の前にマグカップが置かれた。中身は白い。温められたミルクの香りが鼻腔を擽った。 「あまい……」  一口舐めると、蜂蜜の優しい甘みを感じた。冷えていた爪先がヒーターで温められ、ホットミルクで凍り付いていた心が徐々に解れていく。店主は静かに壁を見つめながらマグカップに口をつけている。 「なんて言えばよかったんだろ」  隼人の家でのことを思い出し、つい俯いて呟く。男の反応はない。静かな空間に、穂高の小さな声がぽつりぽつりと浮かんで消える。 「……いつも寝る前になって『もっと気の利いたことを言えたら』とか『こう言い返してやればよかった』とか考えてぐるぐるしちゃうくせに、肝心な時に言いたいことは一つも出てこない」  穂高は小さい頃から内気で、自分の意志表示が下手くそだった。大学三年になった今もそれは変わらない。友達がいないわけではないが――例えるなら、三人以上で会話した時に一言も発せずに終わってしまうタイプだ。  思ったことを口から出す前に一度咀嚼してしまう癖は、生まれながらの性分のようなものだった。 「でも結局どんなに考えても、何が正解だったかなんて分からなくて。だからこそ、物をズバッと言えて、ぐいぐい引っ張っていってくれる人に惹かれたんだよなぁ」  本日浮気が発覚した恋人――隼人は同じ大学の二つ上の先輩で、友人を介して知り合った。  飲み会があれば迷わず幹事を務めるタイプの隼人は、人見知りな穂高の面倒も気さくに見てくれた。なかなか人と気軽に絡めない穂高の代わりに場を盛り上げ、インドアな穂高を色んな場所に連れて行った。  今履いているスニーカーだって、もとは隼人と旅行に出かけるために買ったものだ。  性的指向が同性に向いている穂高はすぐに隼人に惹かれた。  かといって二人が恋人になったのは決してドラマチックな展開があったわけではなく、きっかけは隼人の「お前可愛いな。俺、穂高なら抱けるかも」という半分くらいはノリで言ったであろう言葉だった。それを真に受けて大真面目に反応してしまった穂高に、普段通り隼人は「しゃーねえなぁ」と了承してくれたというわけだ。  隼人は元々ノンケだった。それを分かっていたから、なるべく体格が良くならないように食事を減らしたり、髪も伸ばしてパーマをかけて丸みのある印象をもたせたりしていたが、結局本物の女性には敵わなかったというわけだ。 「きっかけは軽い感じだったんですけど、なんだかんだ付き合って二年以上経つし、それなりにうまく行っていると思ってたんですけど……今日サプライズで夕飯を作りに行ったらベッドで半裸の女性と――」 「女性と?」  訝しげに見つめられ、穂高は失言に気付いた。深くは聞いて来ないが、動揺で頭が真っ白になり、咄嗟に言い訳も出てこない。 「……それで?」  しどろもどろになった穂高を落ち着かせるように、店主はゆっくりと先を促す。 「えっ……ええと、それで、うっかり浮気現場に飛び込んでしまって、何も言えずに相手のマンションを飛び出してきました。ほんと、何がいけなかったんだろ……」  例えば、隼人の仕事が土日休みじゃなかったこととか、彼だけが社会で新しい人間関係を築き始めたこととか。社会人と学生の夏季休暇の長さの違いとか。背負っている責任の重さや、お金や時間の使い方とか。  互いに見て見ぬふりを重ねてきた小さな変化。それらが積もりに積もって、二人の歯車は狂ってしまったのだろうか。  今日だって久々に隼人の好きなオムライスを作って、次の休みは近場に旅行でもと思っていた。特に大きな喧嘩もなく、これから先も穏やかな時が流れていくものだと疑わなかった。  それなのに、穂高の描いていた幸せな時間は、急に止まってしまった。  ぽろりと涙が一滴落ちて、ミルクに解けていく。塩辛くなってしまっただろうかと舐めてみると、なんてことはない、蜂蜜の甘みは変わらなかった。  鼻を啜って顔を上げると、こちらをじっと見つめる店主と目が合った。赤の他人の身の上話なんて迷惑極まりないはずなのに男の瞳の色は思いのほか真剣で、親身になって聞いてくれているのが分かった。 「あ……色々とご迷惑おかけしてすみませんでした。なんか、お話聞いてもらって身体も温まったら、元気が出てきました」  二人のマグカップが空になった頃、穂高は腰を上げて深々と礼をした。他人に、しかも初対面の相手に、こんなに自分の話をしたのは初めてだ。  普段であれば自分の失恋話なんて、仮に話し始めたとしても間違いなく途中で止めてしまう。なのになぜ彼には打ち明けることが出来たのだろう。目の前の男の淡白な表情をちらりと見て、なんとなく理由が分かった。  ――待っててくれたからだ。  彼は愛想こそまるでないものの、穂高が言葉を選んでいるあいだも、自分の意見も同意も茶々も挟むことなく、ただ聞いているという意思表示だけをして静かに待っていてくれたのだ。  そんな彼のおかげで悲しみを吐き出すことができ、ここに来た時よりも少し心が軽くなった気がする。
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