神鹿(しんろく)の巫女

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 昨晩に降り始めた雪は、一晩かけて山を白銀に染めていた。  しんと静かな朝である。  境内の景色も一夜にして様変わりしていた。この神社には狛犬に代わり狛鹿が二頭、拝殿の両端に鎮座しているが、かれらもすっかり雪をかぶり白鹿となっている。  雪かきをひと通り終え、次は手水舎の掃除と熊手を抱える、少女、(あや)。腰まである黒髪を束ね、白い着物に朱色の袴を履いた彼女は巫女である。  足袋に雪草鞋を履いて、冷たい雪の侵食を防いでいるものの、袴の裾が雪面についてしまう。  これでは手水舎まで行くのにも一苦労だ。  絢が手水舎の雪をおろしていたところ、不意に鳥居のほうから馬の嘶きが聞こえてきた。  驚いて振り返れば、立派な栗毛の馬から、ひらりと男ひとりが降り立つところであった。  男は鳥居をくぐり、まっすぐに拝殿の前へと進み入る。  まだ日の登りはじめた刻で、辺りはうす暗い。  山奥の古い神社には、麓の村の者のほかに、訪ねてくるものもない。それなのに、こんな雪の深く積もった早朝からの参拝客は、珍しいことである。  思わず手水舎の影に身を潜め、そっと目元を出して見る。  不審にこそ思わなかったけれど、(あや)はその者の出で立ちに心引かれた。 「お侍様だろうか」  歳の頃は絢より少し上か、一心に祈る横顔は、まだあどけなさすら残るのにも関わらず、参拝の作法は心得ているようで、一挙手一投足がみごとに洗練されたものだった。  面をあげて、古い社を見やる様子は、ことさらに凛と眩く思われた。  自分の意志とは関係ないように、心臓が音を立てて鳴るのを感じ、絢は慌ててその場を立ち去った。  なんだろう、この胸騒ぎは。  冷たい風が頬を撫でるが、不思議と寒さも気にならなかった。  拝殿には先程の男がまだおり、鉢合わせるのははばかられた。やや迂回して社務所に戻ろうと、林の道へと雪草鞋を踏み込んだ途端のことだ。  ずさ、  と足を滑らせてしまったのだ。  脇へ滑り落ち、真新しい白雪の上に朱色の袴を広げ、あられもない姿を晒しため息をこぼす。 「やってしまった……」  気を抜くと、絢はいつもこうなのだ。  うっかり者、とは自分のためにある言葉だ、と常々。  冷たい雪が衣を濡らしていく。  やれやれと立ち上がろうとするも、つんとした痛みに気づいて座り込む。軽く足を挫いたらしい。  痛みがひくまでしばらく、座り往生しているうちに、空がかげり、またしんしんと、雪が降り始めた。  早く帰らねば、雪だるまになってしまうわ。  絢が心細く思い始めた頃だった。  ざくざくと雪踏む足音が聞こえ、ぎょっとして振り返る。 「大丈夫か」  声の主は、先程の参拝者だった。 「今しがた林のほうで物音がしたので、けものかと思ってのぞいてみたら……」  屈んで絢の様子を覗き込みながら、「動けぬのか?」  心配そうに、しかし穏やかな調子で尋ねてくる。 「あの、どうか……お気になさらず。しばらく休めば、よくなります」  絢は口をぱくぱくさせ、つっかえながらやっと答えた。殿方との会話に慣れておらず、ましてやこのようなやんごとなき風貌の侍とあっては、もうどのように受けごたえしてよいのやらわからない。  無礼を申してしまったろうか、と恐縮していると、 「そうか」  と彼は身を引き、素直に頷いた。 「私も人に見つかると少しまずいゆえ、助けを呼ぶことができぬのだが、せめて身体を冷やさぬよう、これを」  そう言ってかけて寄こしたのは、藍染の立派な羽織であった。  とても温かい。絢はこれまで、そのような施しを受けた試しがなかったため、驚きにただただ目を見張るばかりだ。  はっと我に返り、 「お待ちくださいあ、あのどちらさ……」  絢が手を伸ばし、声をかけるもすでに遅く、侍は栗毛馬に跨り、走り去ってしまった。  なにか白昼夢でもみたかのように、絢はぽかんと口を開けて、雪煙に溶けゆく馬の背を見送った。  しかしふと地面に目をやって、またも困惑することになった。 「これは……」  拾い上げたのは鼈甲の簪である。  こんな山奥にあるわけのない高価な品。  先程の侍が、落として行ったのだ。 「絢や、今朝は随分と帰りが遅かったが」  社務所に戻ると、爺が朝餉の用意をしており、掃除と祈祷を終えた絢を待っていた。 「それと、御祈祷にも身が入っておらぬようじゃが……」  侍に会ったことは爺には黙っておくことにした。人に見つかるとまずいとの話であったからには、秘密にしておいたほうがよいと考えたのだ。 「年越しの神楽がそのようではアメノカクさまがお怒りになりましょうぞ」  爺のことばをはいはいと受け流し、心ここに在らずといった面持ちで、絢はその日のお務めをこなすのであった。  夕方、ようやくひとりで自室へ下がる。  雪が積もった以外にはとりたてて変化のない一日で、朝の一件はまるで何年も前のできごとかのように思われた。  寝支度をととのえた絢の目に、ふと入るのは、鼈甲の簪。朝の侍が落として行ったものである。手ぬぐいに包み、丁重に保管していたのだ。いま一度それを開けて、しげしげと眺めてみる。  深い飴色をした簪だ。  縁起の良い鶴の彫刻が施され、その周りには幾重にも重なるように紅葉が彫られている。  いったいどれほどの手間と技術をもってすれば、このような美しい細工が可能なのであろうか。魔法のように感じられた。  忌み子として捨てられ、神主である爺に拾われて以来、山奥で質素な暮らしを営む絢には、縁もゆかりもない品。だけれども、とてつもなく価値のあるものであることはわかる。  このような高価なものを身につけるのは、いったいどのようなお方なのであろうか。  想像もつかなかった。  しかしそんな絢も年頃の娘である。  一瞬だけ邪心が宿り、自分の髪にそれをさしてみようと近づけてみた。  けれど。 「わからぬ」  と言ってやめた。  ほんとうは、アメノカクさまに見られている気がしたからだ。  絢は、古くからこの地に祀られるアメノカクさまにお仕えしている。その耳に神の声を聞き、人々に信託を伝え授ける巫女である。  いまは年越しの神楽の舞に向け、準備を進めている最中。  そのようなだいじな時期に、アメノカクさまに背くような真似をしてはいけません。  と、なんとか、自分を律するのであった。  アメノカクさまは鹿のお姿をした神である。  そのむかし、まだ地上に神がいた頃も、ほかの神には険しくてかなわない山道を登ることができたので、高天原にておはす天照大御神(アマテラスオオミカミ)さまにたいそう信頼されていたと伝え聞く。 「アメノカクさまのような丈夫な足腰があれば、私もこっそりこの山を下って、宿まで簪をお返しに行けるのに」  手水舎まで行くのに滑落しているような鈍児娘(どじむすめ)には、とうてい無理な話である。  とはいえこの簪とともに、あの侍の帰りを待つ娘が、どこか遠い町にいるはず。  鼈甲の簪は、ここへあってはならないものだ。  きゅっと胸の奥を掴まれる奇妙な感覚をおぼえながらも、 「アメノカクさまお願いします、どうかこの簪を、あの方のもとへとお届け下さい」  静かに目を閉じ、祈るのであった。  けれども朝起きてみると、まだそこに簪はあった。  少し落胆しつつ、昨日の侍が、万に一つでもまた訪れないかと期待して、絢は懐に簪を忍ばせた。  しかし拝殿の脇を通り過ぎるたとき、やはりいつも通り、ひとけはなかった。  ふと、冷たく澄んだ空気の奥から、何かが雪を踏み、ゆっくりと近づいてくる。  心臓の高鳴りを抑えながら、鳥居のほうへ顔をやると。  そこに佇んでいたのは、一頭の鹿。  馬ほどの大きさのある美しい牡鹿である。  それも身体ばかりでなく角の先まで雪化粧をした白樺のように真っ白な。  絢が目を丸くしていると、鹿は頭を垂れるように下へ向けた。  近づいてみると、鹿は促すように、脚を折る。 「アメノカクさまの遣いでしょうか……」  頷きともとれる動きで、鹿は絢を招いた。  絢は恐る恐る、幾重にも枝分かれた角に手をかける。  鹿が身体を低くしてくれていたおかげで、袴姿の少女でもひょいと跨ることができた。  白い牡鹿はすくっと立ち上がり、信じられない速さで駆け出した。  雪深く険しい道をも飛ぶように進む。乗っている、というより突きあげられている、と言ったほうが良い。両脇では雪煙が巻き上がる。冷たい風が頬を叩き、目を開けているのもやっとである。内臓が口から出てしまわぬよう唇は固く結ばれ、息もできない。  しかし絢は不思議なほどに爽快な気持ちであった。  やがて村の入口に一陣の人かげをみとめると、 「お待ちください!」  考えるより先に声が出ていた。  当の侍は今まさに発とうとしていたところで、従者を幾人も侍らせた栗毛馬の上に座していた。奇妙な白い牡鹿から飛び降りて、自分の前にころがり出てきた少女の姿に驚きを禁じ得ず目を見張る。 「何奴」 「刺客か」  少女を取り囲んだ従者どもが刀を抜こうとするのを、侍は片手で制すと。 「この装束は山の神の巫女、巫女の乗ってきた鹿は山の神よりお告げやもしれぬ」  と言って従者どもを下がらせた。  大勢の、強面の武人たちの視線にさらされて、絢は心臓が破裂しそうなほど怖気付いていた。  しかし、馬上の殿方を見上げると、にわかにその目的を思い出し、 「これを……」  頭を低く低く俯いた姿勢で、両手に簪を捧げ持って差し出す。  侍は、信じられないような面持ちで絢と、簪の交互に見た。 「これを亡くしたと思って、内心滅入っていたのだ……かたじけない」 「神託ではなくてごめんなさい」  絢はついと顔を上げると、精一杯の息を吸い込み、吐き出すように、 「でもあの私、あなたの旅の無事を、毎日アメノカクさまに祈っておりますので……! あなたと、その簪を待っているお方の末永きお幸せを……」  すると侍は少し微笑んで、 「これは母の形見なのだ」  と静かにつぶやくのだった。  絢ははっとして無性に恥ずかしく、寒さに真っ赤になった顔をさらに赤くした。 「山の神の巫女が私の無事を祈ってくれるのは心強い。また来よう。今度はもう少しゆっくりと、話がしたいから」  その刹那、絢の周りにだけぱっと温かな花が咲いたようだった。心臓は先ほどまでよりいっそう破裂の様相を極めていた。人前でこのような態度を見せるのはみっともない。ましてや神の遣いに導かれてここに立っているのだ。  けれど、 「はい、お待ち申し上げております」  と答えた絢は、少女らしいはにかんだ笑みを隠さなかった。  絢は、去ってゆく一団に深々と頭を下げながら、いつまでも見送っていた。  鹿の神は、私欲に負けずひとの幸せを乞い願う健気な巫女の姿をひたと見守り、そうして春の訪れを、密かに期待して待ちわびるのであった。
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