月明かりの下校

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冬の寒さが緩んでくると、通学時刻に、また明るさが戻ってきた。 ほうきでサッと掃いたような薄い筋になった雲が、淡い珊瑚色に染まり、まだ夜ではないと告げている。 そんな夕焼け空のもと、グラウンド傍を歩いていると、金坂さんが、小さく手を振ってくれる。 私も小さく手を振り返して、ふと気付く。 他の野球部員がこちらを見ていることに。 恥ずかしい…… 私は、顔を伏せて、早足で校門へと急いだ。 そして、その夜、校門で待つ金坂さんは、なぜか、私が隣に並んでも自転車を漕ぎ出そうとはしない。 どうしたんだろう? 「金坂さん?」 不思議に思い、私は首を傾げる。 「恵理奈ちゃん、俺、何かした?」 えっ? 「いえ、別に……」 何のこと? 「さっき、俺が手を振ったあと、変だったから、何かしたのかと思って……」 ああ…… 「いえ、あの、私が手を振り返すところを、他の野球部の人が見てたので、なんだか恥ずかしくなって……  私なんかが金坂さんに手を振るなんて、生意気だったかな、と……」 私の方が年下なのに…… それを聞いた金坂さんは、ほっとしたように、息をついた。 「恵理奈ちゃん、俺、恵理奈ちゃんが好きだ。  付き合ってくれないか」 うそ…… ストレートな告白。 今まで、考えなかったわけじゃない。 毎日、忙しいはずなのに、野球部の練習で疲れてるはずなのに、私を送るためだけに、わざわざ冬の寒い夜に校門で待っててくれた人。 明るくて、優しくて、暖かくて…… 好きにならないわけがない。 でも…… 「ごめんなさい。私……」 私には、アルコール依存症の父がいる。 養わなければいけない中学生の弟もいる。 他の子のように、デートしたり遊んだりする時間もお金もない。 「恵理奈ちゃん、俺のこと嫌い?」 とても辛そうに金坂さんが尋ねる。 「いえ、嫌いでは……  でも、私は、今、誰とも付き合えないんです。  ごめんなさい」 母が生きていたら…… 父が、以前の父に戻ってくれたら…… そんな考えても仕方のないことが胸をよぎる。 「じゃあ、これからもこうして迎えに来ていい?」 金坂さんの気持ちはとても嬉しい。 でも…… 「金坂さん、もう、受験生ですよね。  私に構ってる時間があったら、勉強してください。勉強して、金坂さんの夢を叶えてください」 金坂さんは、中学校の先生になりたいって言ってた。 だから、教育学部を受験するって。 野球部の顧問になって、一緒に野球をしたいって。 私は、その夢を邪魔したくない。 金坂さんは、唇を真一文字に引き結んだかと思うと、そのまま空を見上げた。 さっき、綺麗な夕焼け雲が流れていた空は、すでに夜の帳に閉ざされ、月がない代わりに無数の星が瞬いている。 金坂さんの目尻が、かすかにキラリと光を放った気がした。 けれど、それも一瞬のことで、次の瞬間には、金坂さんは、にこりと笑顔を見せる。 「じゃあ、今日が最後だね。送るよ」 私たちは、いつものように並んで自転車を走らせる。 いつもと違うのは、ただ会話がないことくらい。 程なく、私の家に着くと、金坂さんは、言った。 「じゃ、明日からは迎えに行かないから、気をつけて帰れよ」 その心遣いが嬉しい。 「はい。今まで、ありがとうございました」 私は、静かに頭を下げる。 「いや、俺も楽しかったから。  じゃ、元気で……」 そう言って、自転車で走り去る金坂さんを見送る。 見えなくなるまで。 見えなくなっても。 今は、まだ家には入れない。 涙に濡れた顔を父や弟に見せるわけにはいかないから。 家に入れば、きっと酒に酔った父がいる。 私と弟は、絡まれないように、二階でひっそりと朝まで過ごさなくてはいけない。 私には、悲しみに浸っている暇はないのだから。
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