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そこで初めて両手が塞がって階数のボタンが押せないことに気づいたようだ。あ、と小さくつぶやく声が耳に届いた。
「――何階ですか?」
社会人のマナーとして、同じビルで働く者のよしみとして、遼太郎はムカムカする感情を押し殺して、営業スマイルを浮かべた。顔だけ笑うなんて日常茶飯事だ。
「あ、ご、五階を……ありがとうございます」
黒髪の青年は、遼太郎を見て少しはにかんだように微笑んだ。
――なぜか、その笑顔にすごく惹かれた。
屈託のない、喜びに溢れたその表情。
ただボタンを押してやっただけなのに。
一瞬見惚れてしまい、そんな自分に驚いて思わず顔を思いっきり逸らした。
エレベーターが「5」を点灯させ、静かに停止した。
青年は遼太郎の態度に愁色を濃くして、少し肩を落とし猫背になってドアをくぐり抜けていった。
鉄製の扉が背の高い後ろ姿を徐々に隠していく。その背中に少しだけ罪悪感を感じてしまう自分をもてあまし、遼太郎は胸に手をあてて大きなため息をついた。
scene 1. 〈了〉
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