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「吉岡さん? ええ、息子さんはずっと音信不通だそうですよ。家を出てから、もう二十年近くなるんじゃないかしら」
「息子さん、学校を出てから、なかなか就職が決まらなくてねえ。しばらく引きこもってたらしいわ」
「それで、吉岡さんのご夫婦とも毎日のように喧嘩をしていたみたいでしてね。吉岡さん、アザを作ってたこともありました」
「結局、仲直り出来ないまま家を出て行ったみたいで。だから連絡もしなかったのかねえ」
「吉岡の旦那さんの死に目にも、会えてなかったですからね」
「そういえば、吉岡さん。昔はご夫婦とも元気な人だったけど、息子さんがいなくなってからまるっきり元気がなくなっちゃって。旦那さんは病気になってからあっという間だったし、奥さんも認知症が出て来て」
「何だか、寂しい話よねえ」
「いきなり二十年も前の、しかも他県警の資料を見せろと言われても、そうそうすぐに出来るわけないだろ」
県警記録管理課の森本は渋い顔でそう言った。
「そこを何とか、頼めないか。篠原管理官には話を通してある」
武田は、あまり申し訳なさを感じさせない口調で言った。
森本はため息をついた。警察学校で同じ教場にいたこの同期は、ちょくちょくこういう無茶を言って来る。
「まあ、何とかしてみるか」
武田がこんな無茶ぶりをして来る時は、埋もれた事件が掘り起こされたり未解決の事件に新たな光が当たったりすることが多い。
それに武田は篠原管理官のお気に入りだ。詳細は詳しくは知らないが、昔武田の祖母に世話になったという話だ。
それがわかっているから、森本も無茶を聞くのだ。
森本はパソコンを開き、隣県の県警の係官にメールを送った。同時に新聞記事のデータベースも検索する。やがて森本は、記事の一つを指差した。
「……おまえの探している事件、これじゃないか?」
それはまさしく、武田が求めていた内容の記事だった。
☆
日がとっぷりと暮れた頃、男はその家を訪れた。人目がないことを確かめ、玄関ドアを叩く。
「母さん、いるかい?」
老婆はおずおずとドアを開けた。
「忠志? 本当に忠志なの?」
男は内心ほくそ笑んだ。この家の息子はもう二十年近く音信不通だというのは、調べがついている。人相が少々違っていても誤魔化せるだろうし、ましてや認知症を発症しているようなら息子をかたっても簡単に騙されてくれるだろう。
家に入ってしまえばこちらのものだ。婆さん一人、どうにでもなる。
「忠志、お腹すいてるでしょう。夕飯を作ってあるの、あなたの好物ばかりよ。食べて」
食卓の上には、料理や酒が並んでいた。向こうが出してくれたものだ、遠慮なくいただくことにする。
散々飲み食いして、さて仕事に取り掛かろうかと立ち上がった時。
ぐらり、と視界が揺れた。妙に眠気を感じる。酒のせいかと思ったが、そんなに呑んだ覚えはない。自分の限界くらいはわかるつもりだった。
まさか。くらくらする頭で男は思った。一服盛られたのか。考えられるのは眠くなるタイプの風邪薬、鎮痛剤。痴呆症が入っているのなら、医者から向精神薬などを処方されているかも知れない。
そんなものを酒に入れられるとは、俺が息子じゃないとバレていたってことか?
と。
脇腹を激痛が走った。自分の胴体から、果物ナイフの柄が生えている。刺された。
振り返ると、そこにこの家の主である老婆がいた。無表情でこちらを見ている。その手には、包丁が握られていた。
「また私を殴るんでしょう」
老婆が言った。
「お父さんがいないから、反撃されないと思ったのね。そうは行かないわ。……殺される前に殺してやる」
男の口から、ひっ、と小さな悲鳴がこぼれた。鬼気迫る表情がただ恐ろしかった。命の危機から来る、本能的な恐怖。何だ。何だ一体。ただの老婆なのに。
男はその場から逃げ出そうとした。足がもつれる。頭がふらつく。這うように、それでも必死で。老婆は着実に追って来る。
もう少しで玄関だ。外に出られる。逃げやすいように、鍵はかけていなかった筈だ。だが、老婆はすぐそこに迫っている。
包丁が。
背中に振り下ろされる。
その、刹那。
「もうやめろ」
いつの間にか入って来ていた長身の男が、包丁を握る老婆の手をしっかりとつかんでいた。開けっ放しの玄関からは、続いてショートカットの若い女性と制服の警官が上がり込んで来る。
「早く! 救急車を!」
女性が警官に向かって叫んだ。警官は携帯電話を取り出して救急車と応援を呼び、女性は刺されている男を老婆から引き離した。
もがく老婆に、長身の男は言った。
「あんたの落とし物は、とっくに拾われている。ほら」
長身の男は老婆の目の前に、スマホに表示された画像を突き出した。
「あ……ああ……」
老婆はそれを見ると包丁を取り落とし、しおれるようにその場に座り込んだ。サイレンの音が近づき、救急車とパトカーが家の前に停まる。
周囲が慌ただしくなる中、老婆はそのまま気が抜けたような表情で赤色灯の光を浴びていた。
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