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車から下りたとたん、寒さに身震いする。
厳しい冬は、まだまだ終わりそうもない。
以前は、冬が好きだった。スーッとはりつめた空気も、温かい冬服も。雪が降るのは困るけれど、そのぶんシチューがおいしい季節だから。
……妻が作ってくれたシチューは、何よりもおいしかった。悲しくなりながら、玄関のドアを開ける。
すると、いいにおいがした。僕は驚いて、台所を見る。
これは……たった今思い出していた、シチューのにおいだ。
動揺する。まさか妻が作ってくれたのか……なんて、そんなはずがない。
愛が作ってくれたのだろうか。
妻の死後、食事の買い物は彼女に任せていた。
もしかして、僕のためにシチューを作ってくれたのか。わきあがってくるのは、ほのかな期待だった。
……でも、耳に届いた声に、はっとする。
愛はどうしてか、泣いているようだった。あわててくつを脱ぎ、台所に顔を出す。
床に座り込んでいる愛が、泣きじゃくっていた。
「愛」
声をかけると、小さな肩がびくっと動く。顔を上げた愛の目は真っ赤になっていて、僕は苦しくなる。
「何があったんだ?」
愛の前にひざまずき話しかけると、愛がある方向を見た。
自分の足下に、鍋が転がっている。鍋の中から、クリームシチューが無残にこぼれていた。
「シチューを、作ってたの。でも、踏み台が壊れて……シチューを、こぼしちゃって……せっかく、作ったのに……っ」
その言葉通り、脚の部分がぱっきり折れた踏み台があった。そういえば、親戚の子供が使っていたものを、愛のために譲ってもらったものだった。相当古くなっていたんだろう……。
「ごめんなさい……お父さん……ごめんなさい……っ」
「……愛。けがはしてないか?」
「……っ」
穏やかに問いかけると、愛がこくこくとうなずいた。たしかに、どこもけがはないようだった。そのことに、心底ほっとする。
僕は腰を上げ、鍋をつかんだ。だいぶこぼれてしまっていたけど、少しだけ中身が残っていた。お玉で一口すくうと、食べてみる。目を丸くした愛が、じーっと、僕の様子をうかがっていた。
「……美味しい」
愛の目から、ぽろりと涙がこぼれる。僕は自然と、微笑んでいた。
「美味しいよ、愛」
「……本当?」
うなずくと、愛も微笑んでくれた。
「これね、お母さんのレシピで作ったんだよ」
立ち上がった愛が、一冊のノートを見せてくれる。のぞき込むと、懐かしい字やイラストが、たくさん描いてあった。
どっと、感情の波が押し寄せてくる。妻を思い出すものを見せられると、とても苦しかった。そんな僕に、愛が声をかけた。
「……お父さん」
愛を見ると、まっすぐに僕を見つめていた。
「わたし、頑張るから。お母さんみたいに、おいしい料理を作れるようになるよ。だから、お父さん。……わたしの料理、食べてくれる?」
「……っ」
……ああ、……なんてことだ。
妻を亡くしてから、僕はずっとふさぎ込んでいた。
なんとか仕事は続けていたけれど、家に帰ったとたんに力が抜けて、ベッドに倒れ込んでいた。思えば、働くか寝るかの毎日だった。そうしているうちに、大切なことを忘れていたんだ。
……妻は、もういない。
でも、愛がいる。こうして一生懸命、僕のことを見てくれている、可愛い娘が。
「……ごめんな……」
目頭が熱くなっていくのを、こらえることができなかった。
シャツのすそで、涙をぬぐう。愛も、泣いているようだった。
「……父さんも、頑張るよ。頑張って、お前を守るから」
「……うん」
「片付けようか。もう一回、作って見よう。父さんにも、教えてくれよ」
そう言うと、愛が笑ってうなずいてくれた。
さあ、作ろう。ほっこりと温まる、おいしいシチューを。僕たちはそろって台所に立ち、ノートを広げたのだった。
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