覚悟

7/7
186人が本棚に入れています
本棚に追加
/144ページ
 自分がこんな女だとは、生徒たちの言葉を借りれば”1ミリも”思っていなかった。    誰かのためにカレー作りの予行練習をしたり、夜一人でBarに入ったり、不意にされたキスの感触を思い出したり、彼の置かれている状況が心配になって、呼ばれてもいないのにこんなところまでタクシーを飛ばしたり。  もう、診療時間が終わっている病院の前でタクシーを降りて夜間の入口を見つけると、ほんのり灯った明かりの方に足を勧める。ここは結城商事のお抱えの病院で、院長も看護部長も顔なじみだった。私のことをずっとかわいがってくれている看護部長の戸田山さんに、お世話になっている方のお見舞いをしたいと泣きついた。まだ公にできないお相手の家族だと、(てい)のいい嘘までついて。  夜間・緊急入り口と書かれたドアを入ると、久しぶりに会う戸田山さんが迎えてくれた。 「莉緒さん、早かったわね。…こちらへどうぞ」 「急に無理を言って、申し訳ありません」  卑怯だということは、十分わかっている。嫌だと思っていても、結城の娘のおかげでこんな事ができるんだと、心の奥で自分に呆れた。彼に呼ばれたわけでもない私は、本当なら簡単に病室になんて近づけない。 「森下様と、そんなお話になっていたなんて。おめでたいけれど…ご心配ですね」  彼女はそれ以上何も言わずに、乗り込んだエレベーターのボタンの8の数字を押す。病院のスタッフらしく、興味本位でそれ以上こちらに踏み込むことはしなかった。 「先程、他にも何人かお見えになりました。確か、リザーブエリアにおいでだわ。そこに行きますか?」  いらしたのは、優弥さんのお義父さまかもしれない。何も考えずにここに来てしまったけれど、やっぱりいきなり私が来る場所じゃなかったと、頭の隅の私が冷静に囁いた。 「…私、取り乱して何も考えずに来てしまって」  戸田山さんは、私の心のぶれを見抜いたように看護師らしい温和な笑顔を作った。 「森下さん、嬉しいと思いますよ。そんな風に心配して駆けつけてもらって。でも、少しタイミングを見たほうが良ければ、違うお部屋にご案内しますね」  そう言ってもらえなければ、やっぱり躊躇して情けなく引き返したかもしれない。特別室と書かれたドアが並ぶ廊下を進みながら、戸田山さんの気遣いに感謝した。    覚悟を、しなければいけない。  彼の隣にいる覚悟を。マスターが言ったように、どんなことがあっても。    マスターが口にした”どんなこと”はわからないままだったけれど、私はここに来てしまった。大変な状況の中にいる優弥さんの傍に居たいと思って、呼ばれていなくてもお節介だと思われても、もし彼が苦しい状況にいるのなら、今は私が手を差し出してあげたかった。 「すみません、お手数おかけします」  案内された部屋へ向かおうとした時、入り組んだ間仕切りの奥の方から、何人かの男性の声が聞こえた。ここは、複雑に部屋が配置された構造になっていて、一見どの入口がどの部屋に繋がっているのかわからない。でも確かに聞こえたのは間違いなく優弥さんの声で、私は思わず立ち止まる。 「…結城社長が僕の父親なのか、祖父の息のあるうちに確かめたいんです」  ハッキリとそう言った姿の見えない声が、聴きたかった優弥さんの言葉なのは間違えようがなかった。        
/144ページ

最初のコメントを投稿しよう!