あわい

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 実に気持ちのいい冷気が、裁判所を出て、私の頬を撫でた。紅葉した花水木の葉が秋の透き通った陽に透けて、燃え上がるように美しい。  勝ったのである。母子殺人事件の被告の、もはや絶望的と思われていた裁判で、正面から無罪を主張し、堂々と勝利をもぎとったのだ。世間の耳目をひいたこの裁判で。  私は、正義派の弁護士として名を馳せはじめていた。満足だった。もちろん、風当たりの強い側面はある。だが、今の世の中では稀な私のスタンスに、共鳴してくれる人々も多い。まだまだ大衆は捨てたものではないのだ。  残務処理を済ませて、私は少し休養することにした。まだ余韻に浸っていたい。ちょうど、恋人の陽子が私のためにお祝いをしてくれることになった。  陽子は私の大学時代の同級生で、そのころからつきあっていた。私の司法試験の勉強やら、あるいは弁護士になったあとの多忙を理由に、あまり満足に会えない日も続いたが、陽子はいつも私を応援して、ついてきてくれた。自分の社会的地位が確定したあとで、陽子に正式に結婚を申し込もうと考えていたのだが、そろそろ、頃合いかもしれない。  私は、正装をして出かけた。陽子は都心の高級なレストランを予約してくれていた。彼女は富裕な家の令嬢である。  出かけたころは、日が傾き、そろそろ黄昏時といってもよかった。私は弾む心を抑えながら、タクシーに乗った。そう、今日こそ、彼女にプロポーズする腹づもりなのだ。指輪の小箱も、バッグの中にそっとしのばせてある。  彼女との結婚生活を送るための、新しい住まいも秘かに選定していた。恵比寿のタワーマンションの最上階。素晴らしい眺望、センスの良いデザイナーズマンションだ。私は陽子を驚かそうと、黙っていたが、まだ少し時間があるので、このマンションに立ち寄ってみることにした。  部屋に案内されると、広い窓からは、ちょうど昼と夜のあわいともいうべき、雄大な空が広がっていた。東の空は深い藍色に沈みつつあり、西の空はなお朱にそまった残照が輝いている。早くこの景色を陽子に見せてやりたい。それに、陽子の両親も、これなら満足するに違いなかった。  その後、再びタクシーを拾おうと、表通りに出る手前、通路のような路地にさしかかった。目の前に、この場にふさわしくない、薄汚れた青い小型トラックが停車しているのが見えた。なんとなく不快に感じたとき、ふいに背後に衝撃を感じた。襲われた、と思った瞬間、意識が消えていた。
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