第8話

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第8話

 窓から吹き込む清風に揺れるカーテン。不規則に波打つその向こう側には、突き抜けるような青天が広がっていた。暦の上ではまだ春だが、もうすっかり夏の空だ。  この日、午後から休講となったアルドは、父の病室を訪れていた。母は毎日仕事帰りに父を見舞いに訪れているが、息子もまた、ほぼ毎日こうして訪れている。  少し前までは、病室の扉をノックすれば、父から入室を促す返事があった。しかし、ここ最近はほとんど無言だ。  父は一日の大半を眠って過ごすようになった。たとえ眠っていなくても、上体を起こすこともない。できないのだ。体力が衰えていることは明白だった。  入室し、父の傍らに座り続けること半時間。アルドは、黙ったままずっと本を読んでいた。父を起こすこともせず、静かに時間を過ごす。  時刻は午後四時。  しだいに風が冷たくなってきた。ここは六階。気温の低下は顕著である。  このままでは父の身体を冷やしてしまう。そう思い、窓を閉めるために、椅子から腰を浮かせた。  そのとき。 「……アル、ド?」  父が、目を覚ました。 「あ、ごめん。起こした? 寒くなってきたから、もう窓閉めるよ?」 「……ああ。ありがとう」  病床から(こぼ)れたかすれ声。その声が弱々しいのは、けっして寝起きだけのせいではない。  窓を閉め、アルドは再び椅子へと戻った。座る際、視界の端にちらりと映った鈴蘭の花。買ってしばらく経つけれど、いまだ可憐に咲きこぼれている。 「今日は、休みなのか?」  一言二言のやり取りを経て、フォースは声の調子を取り戻した。とはいえ、やはり張りはない。横たわったままということもあり、余計腹部に力が入らないのだろう。 「教授の都合で、急遽午後から休講になったんだ。そのかわり、週末補講だけどね」  肩をすくめながらも、頬を緩めて説明する。  突然の休講でぽっかりと時間があいてしまうことは、学生時代ままあることだ。 「そうか。……卒業はできそうか?」  先日のイザベラとまったく同じ質問を父から受けてしまった。  瞬間、アルドは溜息交じりにがくりと肩を落とす。 「父さんまでそれ聞く? 大丈夫だよ。姉ちゃんにも聞かれたけど、オレこれでも成績いいほうなんだって」  聞かれ方も同じなので答え方も同じ。『姉ちゃんよりは頭悪いけどな!』と付け加えたところまで同じだ。  ある意味、これはクイン家の中で鉄板ネタと化しつつある。  ……が、あくまでもネタだ。アルドが研鑽を積んでいることは家族全員が知っているし、優秀な成績を修めていることだって知っている。  それもこれも、すべては(きた)るべき時のためだということも。 「……アルド」 「ん? なに?」  突如、真剣な顔つきで父が息子の名を呼んだ。  直前まで口を尖らせていたアルドだったが、一転、キョトンとして首を傾ぐ。  何かを躊躇っている様子の父。一瞬だけ目を伏せたが、すぐさま息子の顔を見つめて問いかけた。 「本当にいいのか? ……後悔、しないか?」  いっそう弱くなった声音が、病床からぽとりと落とされる。  父の言葉からは、本来含まれるべき目的語が省略されていた。だが、アルドにははっきりとその目的語がわかっていた。こう問いかけた父の真意もまた然りだ。  躊躇いとともに混在する父の不安を拭うように、ふわりと微笑む。 「後悔なんてしないよ。そりゃ、やってみなきゃわかんないことだらけだし、オレが想像してる以上に大変なことだって覚悟はしてるけど……それでも、オレは父さんの会社で働きたい」  父の後を継ぐ。そう明言はしなかったものの、その意志は自分なりに精一杯込めたつもりだった。  父が自分を引き取った理由は、言わずもがな、自分を後継者に据えるため。そのことは、物心ついた頃からずっと心に刻み続けているし、疑問に思ったことなど一度もない。  しかし父は、それが息子である自分の将来を縛りつけることになるのではと懸念しているのだ。製薬会社の長男であることが、他の選択肢を排除しているのではないかと。  もちろん、そんなことはない。  優しい父のことだから、もし自分が他の選択肢を提示すれば、一緒に悩んでくれるだろう。今までにも、そうしたタイミングは何度かあった。けれど、とくに何も言わなかった。言う必要がなかったのだ。父の後を継ぐ以外、他に選択肢など考えられなかったから。 「これは、オレが選んだ道なんだ」  父と視線を合わせ、曇りなき(まなこ)と声でそう告げた。  成人してから二年が経とうとしているが、大人びた表情の中には、まだどこかあどけなさが残っている。  自分が選んだ道——これは、本心からの言葉だった。ここに嘘や偽りなどはいっさい存在しない。  だが、不安や恐怖がないわけではなかった。  人々の健康と命を左右する薬剤。それを扱う組織のトップという重責。  そして、避けることのできない別れ。  先ほど会社を継ぐと明言しなかったのは、それを口にしてしまえば、今にも父がいなくなってしまいそうな、そんな気がしたからだ。  でも。 「心配しないで……ってのは無理だと思うけど、父さんの意志は、ちゃんと守るから」  弱音を吐いている場合ではない。大切な家族を、何千人という社員を、路頭に迷わせるわけにはいかない。  父が身を削って培ってきたもの、築いてきたものを守るために。  前を見据えて、進んでいくしかないのだ。 「……」  正直に、真っ直ぐに、己が目指す方向を示してくれた息子に、父は胸を熱くした。  頼もしくて、嬉しくて、眩しくて……言葉にできないとはこういうことなのかと身をもって実感した。  同時に、体の奥底から一気に高まってきた感情の(たば)。  今すぐ起き上がりたい。起きて、息子を思いきり抱きしめてやりたい。なのに、それすら叶わぬ自分が、歯痒くて歯痒くてたまらない。  心の中でそう嘆いている父に、アルドは静かに寄り添った。無論、父の心中を知る由などない。ただ純粋にそうしたいと思っただけだ。  布団の上に投げ出された細い腕。点滴が繋がれ、針が挿入されてある周囲には、黒く変色した痕がいくつも残っていた。なかなか針が刺せないのだと、看護師が切なそうに漏らしていたことを思い出す。 「じゃあ、また明日」  蒼白くなった父のその手を、アルドは両手でそっと握りしめた。大好きな父の手。この手に、何度支えられてきたことか。 「……ああ」  一方の父も、握り返した息子の手の大きさを知覚し、深い感慨に打たれていた。立派に成長を遂げた息子に対し、一口には言い表せないほどの喜びを感じる。  触れた部分から伝わったモノ。  それは確かに、生命(いのち)の温もりだった。  ◆  誰が初めに言い出したのか。  ——美女と野獣。  言うまでもなく、イザベラとイーサンを比喩的に表した言葉である。  けっして揶揄しているわけではないし、言明したことなど誰ひとり一度としてない。言い出した者などいないのだ。  二人が施設内で一緒にいるところは、皆すでに何度か目にしている。ときには中庭で、ときには廊下で。  そこへ出くわすたび、人々は共通しておのずとこの言葉を思い浮かべてしまうのだった。  繰り返すが、けっして揶揄しているわけではないし、言明したことなど誰ひとり一度としてない。  今では、イザベラとイーサンの陰の代名詞となっている。  この日も、二人はともにいた。  黄昏時の廊下。今まさに退勤しようとしていたイザベラは、外勤から戻ってきたイーサンと行き合った。 「お疲れさん」 「お疲れ様です」 「もう上がりか?」 「はい。退勤許可が出たので」  まるで天でも仰ぐかのごとく彼を見上げる彼女。互いの瞳に互いの顔が映り込んだ。  イーサンの姿を見つけて逃げ出していたことが嘘のように、イザベラはごくごく自然に会話を交わしていた。体を強張らせることもない。  実は、あれから何度か、例のカフェで一緒に休憩時間を過ごしていたり。  ところが、見つめ合ったのもつかの間。イザベラはイーサンから視線を外すと、すぐさま彼の斜め後ろに立つもう一人の存在にそれを移した。 「お疲れ様です、フレイム中佐」  そう言って彼女が軽く頭を下げた先には、イーサンの後輩であるジーク・フレイムの姿があった。  銀色の長髪に金色の双瞳。筋骨隆々としたイーサンとは対照的な引き締まった細身の(からだ)。相変わらず見る者をうっとりとさせる優麗な容姿だ。色香さえ、漂っている。  年はイザベラのほうが上でも、階級はジークのほうが二階級ほど上。軍という組織では、昔から年齢よりも階級が重視された。くわえて能力主義。いくら年下と言えど、上官には敬意を払ってしかるべきである。  だがジークは、イザベラとの階級の隔たりをとくに気にしている様子もなかった。緋色の先輩の隣まで二、三歩足を進めると、イザベラに対し、丁寧に会釈する。その表情や一連の所作から、彼女のことを『下』に見ている節など微塵も観取できなかった。  イーサンとジークはそれぞれに任務を済ませ、今しがた帰還したばかり。たまたま門の外で会ったため、揃って入ってきたらしい。 「……本当だったんですね」 「何が?」  驚いたというふうに、ジークは真横のイーサンを見上げた。顔はさほど心情を映してはいなかったが、代わりに語調がそれを表していた。  後輩の言わんとしていることがいまいちつかめないイーサンは、眉を顰めて疑問符を投げかける。  そして、次に放たれた後輩の二の句に、彼はさらにその太眉を顰めた。 「クイン大尉と親しくなれたこと」 「……あぁ? なんだお前俺の話疑ってたのか?」 「少しだけ」 「嘘なんか吐くわけねぇだろうよ、まどろっこしい」 「焦りと寂しさゆえに膨らんだ妄想かと」 「おいこらてめぇ一発殴らせろ」  胸倉をつかみかかる勢い……とはさすがにいかない。このやり取りにはもうすっかり慣れている。それに、自分のほうが年嵩だから。……大人だから。  とはいえ、もちろん不快感はばっちり与えてもらったので、イーサンはとりあえず可愛い後輩を横目でじろりと睨んでやった。もっとも、コイツが涼しい顔をすることは火を見るよりも明らかだ。  一方、イーサンの予想通りに涼しい顔をしながらも、ジークは内心喜んでいた。尊敬する先輩が想いを遂げられたことは素直に嬉しいし、心の底から安堵している。  さっきの憎まれ口などは、ほんの冗談だ。口には出さないけど。  でも、そんな彼にも、周囲と等しく浮かんでしまった言葉があった。  ——美女と野獣。  誰が言い出したのかは知らないし、耳にしたこともないけれど、言い得て妙だと納得する。口には出さないけど。  これが、彼らの通常運転だ。  けれども、二人がこういう間柄であることを初めて知ったイザベラは、直立したままぽかんとしていた。突として上官二人の寸劇を見せられてしまったのだ。無理もない。  中でも彼女が一番驚いたのは、ジークのキャラクター。まさか、こんなにもつっけんどんな態度をとれる人物だとは思ってもみなかった。  まあ、対象はこの熊限定なわけだが。 「こうして顔を合わせるのも久しぶりですね」 「……え? あっ、そ、そうですね」  ジークの微笑と言葉に、イザベラはハッとした。直前まで固まっていたせいで見事にうわずった第一声。慌てて同意する。 「ん? お前ら顔見知り……って、そうか。そうだよな」  二人の関係性に、イーサンは一瞬だけ疑問を抱くも、その返答を求める前にすぐさま得心した。侯爵家の嫡男と製薬会社の令嬢。これらの属性を考慮すれば、おのずと答えは見えてくる。  二人は何度か社交場で顔を合わせていた。といっても、父親同士の挨拶のついでに軽く言葉を交える程度だったゆえ、それほど親しいというわけではなかった。  軍人として多忙を極めるようになった二人。急な任務で各地へ派遣されることも少なくない。よって、その手の会合へ出席すること自体減少し、顔を合わせる機会も今ではほとんどなくなった。  こんなふうに話をするのは、実に二年ぶりのことである。 「お母様はお変わりございませんか?」  気を取り直して、イザベラは口を開いた。あまり意識することなく発したのは、ある種の定型文。  しかし、言うやいなや、彼女はまたもやハッとした。先ほどとは違う意味で。  父が入院していることは、イーサンには話していない。余計な心配をかけたくはないので黙っている。  それでも、この流れだと、ジークから似たようなフレーズを返され、父の現状を話さなければならなくなる。かもしれない。  彼がもし、彼の父から聞いているならば、入院のことは知っているだろう。  彼の父は、あのフレイム元帥だ。 「はい、おかげさまで。こちらは相変わらずなので、御家族の皆様にもよろしくお伝えください」  だが、イザベラの心配は杞憂に終わった。  ジークは、彼女の父の入院に関し、一片も口にはしなかった。心配していないわけではない。むしろ真逆だが、あえて触れることを避けたのである。 「……はい。ありがとうございます」  ジークの胸の内を知る術のないイザベラに、真偽のほどはわからない。けれど、なんとなく……なんとなく、心に染み入るものを感取し、イザベラは彼にそっと感謝した。 「……と、悪かったな。足止めちまって」 「あ、いえ。大丈夫です」 「気ぃつけて帰れな」 「ありがとうございます。では、失礼します」  イーサンの言葉を受け、深々と一礼すると、イザベラはこの場をあとにした。  これから、彼女は父のもとへと向かう。 「……」  近い将来、彼女が置かれることになるであろう状況を嘆き、憂いながらも。  ジークは、静かにその小さな背中を見送った。
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