第1話

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第1話

「お断りします」 「おいおい、もうちっと悩んでくれてもいいんじゃねぇの?」  とくに表情を崩すことなくスパッと言い切った女性と、眉を下げているにもかかわらずそれほど困った素振りを見せていない男性。女性はヒトで、男性は竜人だった。  二人の頭上では、風に揺れた木の葉が擦れ合い、清音を奏でている。少し熱を増した初夏の陽光が樹々を照らす午後。まるで青や緑の色硝子を散りばめたような輝きが、なんともアンバランスな二人に降り注ぐ。  女性の名は、イザベラ・クイン。制服の上から羽織った白衣で職種はすぐに推察できるが、今年二十六歳になる師団所属の軍医大尉である。その美しい容姿と類いまれなる頭脳で、入隊二年目にして早くも周囲から一目置かれる存在となった。  対する男性は、イーサン・オランド。軍の中でも一二を争う巨体の持ち主で、良く言えば快活、悪く言えばガサツな壮漢だ。だが、少将という肩書からわかるように、弱冠二十八歳にして目覚ましい昇進を遂げた、非常に優秀な将官なのである。  そんな軍のホープである二人が、こんなところで、いったい何をしているというのか。 「ちょっと茶でも飲みながら話がしたいだけだって」 「私なんかが少将の貴重なお時間を頂戴するだなんて恐れ多いです」 「つれねぇのな」 「本心ですから」  ここは、本部の敷地内に設置された中庭。  休憩時間を利用し、お気に入りの本をお気に入りの場所で読んでいたイザベラのもとに、先ほどイーサンがやってきた。どうやら彼も休憩中のようだ。  木製のベンチに腰掛けたイザベラを見下ろすイーサン。熊が花を愛でるかのごときこの光景は、ここ最近しばしば見られるものだった。 「いくらお誘いいただいたところで、お応えすることはできません。ですから、どうぞ他の方を——」 「『他の方』じゃ意味ねぇんだよ。言っただろ? お前さんに興味があるって」 「……」  感情を表に出すことを抑えていたイザベラだったが、ここでついに顔を顰めてしまった。相手は自身より四つも上の階級に属する少将。失礼な態度を取っている自覚はある。しかし、こうもしつこく言い寄られては、うんざりするなというほうが無理だろう。  イーサンのこれは、いわゆるデートの誘いだ。同じようなやり取りが、数週間前——彼らが戦地から帰還したその数日後——から頻繁に行われている。  興味がある。彼はそう言ったが、要は彼女に一目惚れしたのだ。 「……まっ、前向きに考えてみてくれな。邪魔して悪かった」 「あ、ちょっ……オランド少将!!」  強引というべきか否か。自身の言いたいことだけ言い残すと、イーサンはその場を去ってしまった。イザベラの抗議の声が、樹々の騒めきに虚しくかき消される。 「なんなのよ、もう……」  爽やかな空気の中に、彼が落とし込んでいった無造作な陽気。呆気にとられた彼女の小さな双肩には、陰々とした何かがずーんと圧し掛かった。おかげで声にも力が入らない。  ぱたりと本を閉じて溜息を一つ。その直後、該当ページに栞を挟み忘れたことに気づき、さらに大きな溜息を吐く羽目に陥った。  ……いつもこうだ。彼は彼女の前に唐突に現れては、一方的な言動で心を振り回す。たいていは『話がしてみたい』の一点張りだ。  イザベラとて鈍感ではないため、イーサンが自分に対して好意を抱いていることは感取していた。とはいえ、なぜ自分のようなヒトに、彼のような名実ともに立派な竜人が興味など持ってくれたのか……まったくもってわからない。  軍人に占める女性の割合は少なく、中でもヒトは稀な存在だ。そんな自分が単純に珍しかったのか、はたまたからかっているだけなのか……さっぱりわからない。  現皇帝が『ヒトとの共存共栄』という融和的な政策を提唱してからおよそ二年。施行当初、この歴史的改変に国内は大きく揺れ動いた。皇帝自ら推進した政策ゆえ、表立って不満を口にする者こそいなかったが、国内は賛成派と反対派に二分されてしまった。長い時間をかけて育まれてきた人々の意識は、そうそう簡単に変えられるものではない。  しかし、もともと種族間の対立や差別・偏見が薄かった軍においては、この政策は比較的受容されやすいものだった。加えて、現在軍を統率している元帥——ゼクス・フレイムは、かねてより皇帝と同義の主義主張を繰り返してきた人物である。彼の高い指揮能力とカリスマ性により、コンプライアンス体制は迅速かつ容易に構築されることとなった。  職場環境には恵まれている、と思う。命を預かるという、とてつもない重責を担っているけれど、辞めたいと思ったことは一度もない。たかだか二年しか勤めていない分際で、利いた風なことを言うなと咎められるかもしれないが、事実なのだから仕方ない。  この仕事が好きだ。誇りを持って臨んでいる。  仕事さえあれば、いい。  だから、恋愛だの結婚だの、色恋沙汰には関心なんてこれっぽっちもないのだ。それに、今はそんな気分になど到底なれなかった。 「休憩時間、終わっちゃった」  腕時計を確認し、本日何度目かの溜息を吐く。立ち上がり、大きく伸びをすると、白衣の裾がひらりと風に翻った。思うように読み進められなかった本を、少々憮然としながらポケットに突っ込む。  後日仕切り直しをしよう——そう心の中で呟いてはみたものの。 「……今日みたいにまた捕まっちゃうんだろうなー、少将に」  神出鬼没な彼のことだ。どうせまた、少年のような無邪気な笑顔でもって、イザベラの時間を攫ってゆくのだろう。彼女の意思などお構いなしで。  けれど、意外にも、彼はけっして無理強いはしなかった。  少将という彼の階級をちらつかせれば、彼女とて、少しくらいは返答に悩んだりするかもしれない。迷ったりするかもしれない。それなのに、いつもあんな感じでふらりとやってきては、本気なのか冗談なのかわからないことを言って立ち去るだけ。  有能な人物だということは知っている。部下や上官らから厚い信頼を得ているということも知っている。  しかしながら、いまいち彼のことがよく…… 「……わからない」  聡明な彼女にも解けない問題はある。世の中には、そうした問題のほうが多いのだろう。  風にそよぐ翠緑の梢の下。  イザベラは、得も言われぬ不思議な感情を胸に抱えたまま、棟の中へと歩みを進めた。  ◆  あれから時計の針は五周し、あっという間に夕刻を迎えた。季節柄、昼間は汗ばむくらいの陽気でも、日が落ちると、とたんに気温は低下する。  茜色がしだいに紫紺へと呑み込まれてゆく中、イザベラは車を走らせていた。思ったよりも渋滞していない。このままいけば、普段よりも早く目的地に到着できるだろう。  退勤したイザベラがやってきた先。それは、郊外に佇む、とある総合病院だ。  いつものように病棟へと向かい、いつものようにエレベーターを利用する。そして、いつものように六階で降り、いつものように廊下を進んだ。  そうして辿り着いたのは、フロアの一番端に位置する個室。その扉を二回ノックし、静かに入室すると、しっとりとした甘い生花の香りが鼻翼に触れた。  中にいたのは、初老の竜人夫婦。窓際に設置されたベッドで横たわる夫の傍らに、妻がしっかりと付き添っている。  二人はイザベラの顔を見ると、目尻に皺を溜め、にっこりと微笑みかけた。 「調子はどう? お父さん」  お父さん——イザベラはそう言った。竜人の男性に対し、そう言った。  イザベラがヒトと竜人のハーフであるならば、何も不思議なことではない。しかし、彼の傍らに付き添う彼女——母シルビアもまた、竜人なのだ。  二人は、イザベラの養父母にあたる。 「ああ。今日はいつもより気分がいい」  イザベラに『父』と呼ばれた彼——フォースは、白髪交じりのブロンドヘアーを枕に沈めたまま答えた。翡翠色の瞳には、優しさが滲んでいる。  ゆったりとした伸びやかなテノール。この声色に、イザベラはほんの少しだけ安心した。  フォースは腎臓を患い、約半年前からこの病院で入院加療を行っている。病状は、はっきり言ってかなり悪い。主治医から説明を受けたとき、イザベラはそのことを瞬時に悟った。  だから、父の声を聞くだけで、その存在を感じられるだけで、ほっとできるのだ。 「ご飯は? ちゃんと食べてる?」 「食べてるよ。お前のほうこそ、ちゃんと食べてるのか? 忙しいんだろう?」 「大丈夫よ。しばらくは内勤だから、時間に余裕もあるし」 「あら、じゃあ(うち)にも帰ってこられるの?」 「うん。次の休暇には、帰ろうと思ってる」  実家を離れ、独り暮らしている娘を労う。血の繋がりはなくとも、イザベラが二人にとって大事な娘であることに変わりはない。 「……お前が無事に戻ってきてくれて良かった」 「ええ、ほんとに」  数週間前まで、イザベラは野戦病院のドクターとして戦地へ赴いていた。入隊以来、そうした任務が何度かあったが、そのたび両親は心配でたまらなかった。  国のために、民のために、公職に身を費やす娘のことは誇らしく思っている。  でも、それでも。  娘が自分で選んだ道だと理解はしていても、やはり親としては複雑な心境なのだ。 「私のことは心配しなくて大丈夫。……だから、お父さんは自分の治療に専念して?」  しだいに弱っていく父の姿を目の当たりにし、何もできない自分に憤りさえ覚える。医師なのに、一番救いたい人を救うことができない。  情けない。 「そうだな。これ以上仕事を休むわけにもいかないしな」  待ち受ける大きな闇に怯えながらも、父の口から出た意欲的な言葉に、イザベラは笑みを湛えて頷いた。  フォースの言う仕事とは、家業を指している。彼は、国内屈指の製薬会社の代表で、自らも薬剤師の資格を有し、開発研究にも取り組んできた。  妻のシルビアも要職に就いており、二人で公私ともに支え合ってきたのである。  二人には、いくら感謝をしてもし足りない。いくらお礼を言っても、いくら謝罪をしても。  いくら『愛している』と伝えても——  イザベラは、生まれてすぐに施設に預けられた。彼女自身、本当の両親がどんなヒトなのか知らない。生きているのか、死んでいるのかさえもわからない。怨んでいるわけではないけれど、べつに知りたいとも思わない。  五歳になってすぐ、子どものいなかったクイン夫妻に引き取られた。当時から、どこか達観しているところがあったイザベラは、養子に入ることに期待も失望もしなかった。  どうでもよかった。そう思わずにはいられない事情を抱えていたから。  だが、夫婦はそれを解消してくれた。深い愛情をもって、解消してくれた。  以来、イザベラは二人のことを『父』と『母』として心の底から慕っている。二人の愛情に応えたい。その一心で、今の今まで生きてきたのだ。  それはきっと、これからもずっと。二人の娘で在るかぎり。 「じゃあ、そろそろ帰るわ。また来るわね」  時計の針が間もなく七時に差しかかった頃。イザベラは、少々名残惜しそうに笑みを零すと、フォースにこう挨拶した。  窓の外では、すっかり暗くなった街にいくつもの明かりが浮かんでいる。光の海の奥は、黒い(とばり)に包まれていた。 「あ、待ってイザベラ。私も帰るわ。もうすぐ面会時間も終わっちゃうから」  娘の言葉に感化されるように椅子から立ち上がったシルビア。夫の薄柳色の額にふわりとキスを落とすと、『また明日ね』と言葉を残し、病室をあとにした。  そんな妻と娘を、フォースは笑顔で見送った。  エレベーターへと向かう道中。並んで歩く母娘(おやこ)の姿に、すれ違う人々は、眩しく煌めく玻璃の花を連想した。  水色のロングヘアーと金茶色のボブヘアー。瞳は萌葱色と青紫色。肌の色も耳の形も違うけれど、さすがは母娘というべきか。醸し出す雰囲気は、とてもよく似ていた。 「あのね、イザベラ」 「? どうしたの、お母さん」  唐突に、神妙な面持ちでシルビアが声を掛けた。それを受けたイザベラは、自身より幾分身長の低い母に視線を移す。  母は、ひどく言いづらそうに、それでもぐっと力を込めて、娘にある現状を告げた。 「お父さん、さっき『ちゃんとご飯食べてる』って言ってたでしょ? でも、ほんとはそんなに食べてないのよ。……たぶん、食べられないんだと思うの」 「……」 「あなたやアルドの前では気丈に振る舞っているけど、きっと、体は相当つらいんじゃないかしら」 「……うん。私も、そう思う」  予想していなかったわけではない。自分が戦地へ赴く前と帰還したあとでは、父は明らかに衰えている。食事の摂取量に左右されているのだろうということは、容易に推測できた。  父の容体の悪化は、弟——アルドも憂慮していた。つい先日、久々に彼と会話を交わした際の、翳りを帯びた表情が想起される。  彼もまた、イザベラがクイン家の養女となった二年後に、彼女がいた施設とは別の施設から引き取られた養子(ヒト)である。  愛する父を蝕む病が、憎くて憎くてたまらない。それ以上に、父を救う手立てを持たない自分の不甲斐なさに、腹が立ってたまらなかった。  胸のあたりに、ぽっかりと開いた穴。その中を、虚しさが貫通してゆく。ハッと我に返り、沈んだ顔色を母に見せてはいけないと、自分を鼓舞した。  拳をぎゅっと握り締め、唇をきゅっと噛み締めながら。  イザベラは、暗い暗い家路についた。
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