第4話

1/1
前へ
/13ページ
次へ

第4話

 ——……ちゃん……  黄昏の色に包まれる空。この時刻特有の忍び込むような静寂が、じわりじわりと街に迫っていた。  吹く風はよりいっそう冷たさを増し、漂う空気には侘しさが滲んだ。  ——……い……ちゃん……  しかし、この場所においては、もはやそれらが主張する余地など寸分もなかった。  街の中心部、賑わう繁華街。人々は皆、各々の目的を遂げるため、せわしげに通りを往来している。一日の内で、店の出入りが最も激しい時間帯だ。  そんな中、彼らもまた、周囲と同様にメインストリートを並んで歩いていた。 「——おいっ、姉ちゃん!」  思わず発してしまった大きな声。  先ほどから、アルドはイザベラに向かって幾度となく呼びかけていた。にもかかわらず、一切の反応を示さない姉に対し、ついに痺れを切らしてしまったようだ。その進行を阻むように、姉よりも一歩前に体を突き出す。  案の定、姉はハイヒールを履いた美脚を止めた。 「……なに?」 「『なに?』じゃない! だからどうすんだって訊いてんの!」  やっとイザベラから返事がかえってきたのだが、どうやらそれは、アルドが欲していたものと異なっていたらしい。彼女に悪びれる様子はなく、それどころか頭上に疑問符を飛ばす始末。これには、さすがのアルドも盛大に溜息を吐いた。  週半ばのこの日。姉弟は、あるものを見繕うため、ともに繁華街を訪れていた。  姉は職場から、弟は学校から、それぞれ待ち合わせ場所へと直行。とくに目的地を定めることなく、歩き始めて約五分が経過した。 「どうしたんだよ、ぼーっとして」  なんか変——約束の場所で落ち合った瞬間、アルドがイザベラに対して抱いた印象だ。落ち込んでいるわけでもなければ、機嫌が悪いわけでもない。何か考え込んでいるふうではあるが、答えを出そうとしているようには見られなかった。  長年彼女の弟をやっているが、姉のこんな姿は珍しい。 「具合悪いのか?」 「え? ううん、大丈夫よ。……で、どこに行くの?」 「だからそれを訊いてんだって……」  右の手のひらで顔を覆い、ずーんと項垂れる。『全然大丈夫じゃないだろ!』という言葉は、心の中にそっと仕舞っておくことにした。 「……まあ、いいや。とりあえず歩こ。ブラブラしてたら、何かいいもの見つかるかもしんないし」  姉の様子は気になるが、体調に問題がないのならそれでいい。……それだけでいい。  イザベラのバッグをさり気なく手に取ると、アルドは再び通りを歩き始めた。彼女が無理なくついてこられるように、歩幅を狭め、速度を落とす。  相変わらず、イザベラは足だけを動かしていた。前を向いてはいるが、向いているだけである。『心ここに在らず』といった感じだ。  彼女がこうなってしまった原因は、間違いなく、例の(あか)い彼にある。  あの一件以来、彼女の頭の中は、彼でいっぱいになった。寝ても覚めても彼の顔や声が頭から離れない。彼の腕を掴んだ瞬間のことを思い出しては、一人で赤面してみたり。  もはやどうすればいいのかわからないし、どうしたいのかもわからない。ただ、もう一度彼と話をすれば、この感情(もやもや)の正体が判明するだろうかと、漠然と思ったりもした。……が、実のところ、あれから一度も彼とは会っていないのだ。  将来有望な少将だ。単純に忙しいのだろう。彼は、本来自分なんかに時間を割いていいような人物ではない。  ほっとしたような、冴えないような、なんとも形容しがたい胸の内。  隣を歩く弟の耳に届かないよう、イザベラは小さく嘆息を漏らした。  街路灯が、そこかしこで、ぽうっと浮かび上がる。まるで蒲公英の綿毛のように。  繁華街といえど、けっして煌びやかではない。古き良き伝統を受け継いだ、情緒あふれる温かな街並みだ。  姉弟がここへ来た理由。それは、間もなく結婚記念日を迎える両親へのプレゼントを購入するため。  毎年恒例のイベントゆえ、二人が揃ってプレゼントを選ぶのも、今では恒例となっている。両親は『気を遣わなくていい』と言うけれど、日頃の感謝の気持ちはちゃんと形にして伝えたい。境遇が境遇なだけに、そう強く思ってしまうのは、やはり仕方のないことだろう。 「……」  クイン家に引き取られてすぐ、イザベラは両親とこの場所を訪れた。  生まれて初めてのショッピング。人混みに圧倒され、おどおどしながら身の置き所を探した。  目に映るもの。耳に入るもの。そのすべてが目新しくて耳新しくて……なんだかとても怖かった。  ——おいで。  足を(すく)ませ、俯いていたイザベラに、差し出された二つの手。躊躇いがちに応えた幼い彼女の手を、二人はキュッと握り締めた。  それは二十一年前、彼女が初めて『父』と『母』と呼んだ日の出来事である。 「何がいいかなー。あんま高い物だと逆に怒られそうだからな」  少々感慨に耽っていると、隣を歩くアルドが独り言を言った。というより、これは暗にイザベラに回答を求めているのだろう。そう察した彼女も、やっと本格的に頭を働かせながら辺りを見回した。  ブティックにパーラー、宝石店に雑貨店。ありとあらゆる種類の店が立ち並んでいるが、とくにこれと言って目を惹く店はなかった。けっして店側に魅力がないわけではない。単に彼女の気持ちの問題だ。  そんなとき。 「あ……」  とある店が、不意にイザベラの目に留まった。 「なに? なんかいいもの見つかった?」  立ち止まり、視線を一点に集中させる姉に、弟が問いかける。  姉の視線の先には、 「……花屋?」  一軒のフラワーショップ。  白木で造られた華美ではない外観とは裏腹に、ショーウィンドウには色鮮やかな花々が所狭しと展示されていた。周囲に比べると、やや小ぢんまりとした、シックで童話テイストな店舗である。 「こんなところに、こんな可愛らしいお店あった?」 「いや、オレの記憶が正しかったら——」  最近ご無沙汰していたとはいえ、幼い頃から何度も通った繁華街。二人とも、店の配置はだいたい把握している。  そう。この場所は、こんな洒落た花屋などではなかった。アルドの記憶では、確か—— 「——植木屋……じゃなかったっけ?」  貫禄のある古風な植木屋だったはずだ。それも老舗の。 「お店畳んじゃったのかしら?」 「畳んだってわけでもないんじゃない? ほら」  そう言ってアルドが指差したのは、入り口付近の壁にかけられた縦長の看板。そこには、『庭木の剪定承ります』の文字が、堂々と黒く太字で書かれてあった。大人しいメルヘンチックな外観とのアンバランスさが、なんとも言えない。  しばらく佇んでいた二人だったが、とりあえず興味本位で立ち寄ってみることに。  カランコロン——  扉を開けると、涼しげなベルの音色が店内に響いた。それと同時に漂ってきたのは、幾種類もの甘い香りと、ひんやりとした冷たい空気。花を扱っているからだろう。空調には、かなり気を遣っているらしかった。  内装は、白や黒やこげ茶といった、落ち着いた色味でまとめられていた。商品のディスプレイも大胆かつ丁寧で、その中でもとくに魅力的だったのはフラワーデザインだ。制作者の優しく朗らかな人柄に直接触れられるような、そんな作品だった。 「らっしゃいっ!!」  突如、花に見入っていた二人の鼓膜に、男性の声がぶち当たった。思わず肩がびくっと飛び跳ねる。  二人が揃って振り向くと、カウンターの内側に一人の中年男性が立っていた。ヒトだった。入店した彼らに気づき、店の奥から出てきたらしい。  四角い顔に並行した糸目。手拭いが巻かれた角刈りの頭。布からちらりと覗いた毛髪は黒々としている。どこからどう見ても『職人の漢』だ。  ……なんというか、ものすごく言いづらいが、この場所にはマッチしない風貌である。 「プレゼント用ですかいっ!!」  おまけに声がでかい。すこぶるでかい。あれが地声、なのだろう。 「あ、えっと……はい」  勢いのある店主の問いかけにやや狼狽しながらも、イザベラは頷いた。  入店した際は、ここで購入することを決定していたわけではない。ただただ興味が先行しただけだ。  けれども、素晴らしいフラワーデザインを目の当たりにし、今ではかなり購買意欲が高まっている。それは、アルドも同じようだった。  動植物好きな両親のことだから、きっと喜んでくれるはず。これが、姉弟共通の考えだ。  唯一気になるのは、デザインしているのが眼前の彼なのか否か……ということ。もちろんそうだとして不都合などは微塵もないし、意欲がそがれることもない。少しばかり(いやかなり)びっくりはするかもしれないが。  しかし、姉弟のこの疑問は、すぐさま解消された。 「今、娘が配達に出てましてね! お急ぎでなけりゃあ、ちと待っていていただけませんか! すぐに戻ってくると思いますんで!」  どうやら、店内に置いてある作品はすべて、彼の娘が手掛けたものらしい。彼の娘は、フラワーアーティストとして創作活動をする傍ら、店の経営にも携わっているのだそう。  アルドの記憶は正しかった。植木屋だったこの店は、娘のために、花屋として生まれ変わったのだ。 「どなたへのプレゼントで?」  カウンターから出てきた彼——棟梁が、姉弟のもとへとやってきた。見れば見るほど『フラワーショップ』とは縁遠い格好である。とはいえ、彼の人柄の良さは、もう十分に知ることができた。 「両親に。……結婚記念日が、近いので」 「そうですか!! そいつぁめでてぇ!!」  イザベラの返答に、棟梁の口からは今日一番に張りのある声が発せられた。喜色を浮かべ、心の底から祝言を贈る。  まるで自分のことのように喜んでくれる彼に対し、姉弟もまた顔を綻ばせた。『親にとってこれほど嬉しいことはない』との言葉には、たまらず胸が熱くなった。  父と母の子どもだと、認めてもらえた気がした。  ほかに客もいなかったので、棟梁と話し込んでいると、まもなく彼の娘が帰ってきた。彼とは似ても似つかない、色白で清楚な女性だった。父曰く、娘は亡くなった母親似なのだそうだ。  姉弟が改めて依頼すると、彼女は快く引き受けてくれた。そうして手際よく作ってくれたのは、鈴蘭のフラワーアレンジメント。鈴蘭は、今の時期が一番見頃らしい。  淡いピンクのバスケットの中で、鈴蘭の花弁が淑やかに揺れている。  ——ありがとうございました。どうぞお気をつけて。  店の外までわざわざ見送りに来てくれた父娘(おやこ)に頭を下げると、姉弟は帰路に着くため、再度通りへと戻っていった。 「よかったな。いいもの見つかって。……いい出会いもあったし」 「そうね」  イザベラが一歩を踏み出すたび、腕の中で鈴蘭の花弁が小さく揺れた。なんだかとても愛おしい。  素敵な出会いに感謝し、両親の喜ぶ顔を想像しながら、足取り軽やかに家路を歩く。  だが、この数分後。 「っ——!!」  イザベラの思考は、一瞬にして停止してしまった。 「どうかした?」  往来の真ん中で突然立ち止まったイザベラ。そんな姉に、弟は怪訝そうな眼差しを向ける。姉は、どこか一点を見つめたまま、何も喋らなかった。その表情は、心なしか強張っている。姉の視線の先がどこに繋がっているのか定かではないが、とりあえず、自身もそちらの方角に目を遣ってみた。 「……ん? あの人確か——」  アルドの視界に映った(というよりも、視界を占領した)のは、とある竜人男性。私服を着用していたが、もはやこの国でその巨体を知らぬ者はいないだろう。 「オランド将軍……だよな?」  なんと、今まさにイザベラの脳内を占拠している、イーサン・オランドその人だった。  仕事のときはオールバックにしている髪も、プライベートだからか、緋色の目に前髪が垂れかかっていた。彫りの深い顔立ちが、ひときわ引き立って見える。  目を見開き、固まる姉をよそに、弟は『やっぱかっこいいなー。憧れるなー』などと暢気に宣っている。  目測で三十メートルは優にあるだろうという彼との距離。周囲との身長差が甚だしいために、彼のことはすぐに認識できるが、彼が姉弟に——もといイザベラに気づく様子はない。 「姉ちゃん、一応職場同じなんだろ? 将軍と話したりとかしないの? ……姉ちゃん?」 「……なんでもない。帰りましょう」 「え? あっ、ちょっ……そっち遠回り!」  引き留めるアルドを無視して、イザベラは踵を返した。人混みを縫うように、必死でヒールを鳴らす。  遠回りであることは承知している。けれど、あのまま足を進めていれば、間違いなくイーサンと顔を突き合わせることになってしまう。……嫌だ、絶対に嫌だ。  直前までイザベラが硬結していた原因。それは、彼自身ではなく、彼の隣にいたある人物の存在にあった。  彼の隣に、女性がいた。小柄で、まるで人形のように可愛らしい、竜人の女性。  親しそうだった。とても。彼の腕を強引に引っ張り、何かをせがむ女性に、彼は呆れながらも優しく応えていた。  彼のことがよくわからない。彼の考えていることも、彼が教えてくれたあの気持ちも。  だけど、一番わからないのは、ほかの誰でもない、  自分自身だ——。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

35人が本棚に入れています
本棚に追加