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第5話
「とっても可愛らしいお花ね。いつもありがとう」
朝食の際、対座するアルドに、シルビアがこう言った。
ダイニングルームの窓辺に飾られた鈴蘭の花。子供たちが購入した、例のプレゼントだ。純白の丸い花弁が、レースのカーテンと見事に調和している。
昨夜、イザベラと話し合った結果、花はアルドが実家へと持ち帰ることになった。話し合ったというよりも、あんな調子の姉に任せるのはどことなく不安だったため、弟自ら持ち帰ることを申し出た。
「お父さんにも早く見せたいわ」
母の嬉しそうなこの反応に、アルドはとりあえず安堵の笑みを零す。
「今日早く帰れるから、オレが病院に持ってくよ」
そして、また今年も、息子として両親の結婚記念日を祝えたことに、そっと感謝した。
あのまま父の病室へ持って行くことも考えた。けれど、面会の終了時刻が目前まで迫っていたし、とにもかくにも姉があんな調子だったので、あえなく断念した。
「イザベラにもお礼を言わなくちゃ」
「あー、うん。今夜、父さんのところに行くって、本人言ってた」
昨日の別れ際、姉から聞いていたことを母に伝える。
——明日、仕事終わったら、お父さんのところに行くから。
自身の顔を見ることなく、伏し目がちに言葉を落とした姉。その弱々しい姿に、無事に官舎まで辿り着けるのだろうかと心配した。付き添いは不要だと言い張るので、そのまま一人で帰したけれど。
姉の様子を窺うためにも、連絡を取ろうかと悩んだが、結局はしなかった。今の姉に触れてはいけない——なんとなく、そんな気がした。いわゆる『弟の勘』というやつだ。
「あら。じゃあ、今夜はお父さんのところにみんなで集まれるのね」
「……たぶん」
律義な姉のことだから、ああ言った以上、よほどのことがないかぎり病院へはやって来るだろう。その辺り、感情の起伏に左右されることはない……はずだ。
それに、姉が何よりもまず家族を重んじるということを、弟は知っている。誰よりもよく知っている。
『あなたたち本当に仲が良いわね』と目を細める母に対し、アルドは何も言わずにただ微笑んだ。
香ばしく焼けたトーストと、上品でほろ苦いコーヒーの香りが、二人きりの食卓を包み込む。
二年前にイザベラが入隊して三人になり、半年前にフォースが入院して二人になったこの家。ただでさえ広い家が、ますます広くなったように感じられた。
アルドがクイン家の長男として引き取られたのは二歳のとき。よって、当時の記憶は皆無に等しい。物心ついたときには、両親はすでに両親だったし、姉は姉だった。
今でこそ人並み以上の成長を遂げたが、幼い頃は同学年の子どもたちに比して体の小さかった彼。その境遇も相俟って、周囲からたびたびいじめを受けていた。
すてご。みなしご。もらいご。
子ども特有の残酷な言葉の暴力。それほど陰湿なものではなかったけれど、幼い彼の心を傷つけるには十分だった。
ひとり自室にこもり、何度も何度も泣いた。家族に——とくに両親に気づかれないよう、声を押し殺して泣いた。言われた事実よりも、言い返せない自分に腹が立って堪らなかった。
いったいいつまでこんなことが続くのだろうか。そんなふうに鬱屈していた、あるとき。
彼へのいじめが、ぴたりと止んだ。
それどころか、なぜか恐れられるようになったのだ。
周囲のこの急変ぶりには戸惑ったが、やっと手に入れた平穏に、彼は純粋に喜んだ。
あとになって、姉が解決してくれたのだということを知った。弟の悲痛な心の叫びを、姉はしかと受け止めていたらしい。……具体的に何をもって解決してくれたのかは、いまだ謎のままだ。
「ねえ、アルド」
不意に、なにやら改まった態度の母に名前を呼ばれた。直前までの翳りを払拭し、『なに?』と短く返答する。
母は、一呼吸置くと、少々遠慮がちにこんなことを尋ねてきた。
「イザベラ、何か言ってなかった?」
あまりにも唐突な質問。かつ、今までにないタイプの質問だったため、アルドはすぐに反応することができなかった。しかも、内容がシンプルなせいで、逆に処理すべき情報が多過ぎる。
「……『何か』って?」
ゆえに、しばらく間をあけたあとで、こう聞き返すのが精一杯だった。
母の青紫色に息子の淡褐色がゆらりと映り込む。いつも陽気で暢気な母が、こんなにも物憂げな表情を浮かべるなんて珍しい。
普段とは違う雰囲気を醸し出している母から告げられたのは、これまた唐突な内容だった。
「うーん、と……例えばね」
「うん」
「好きな人がいるとかね」
「……うん?」
「お付き合いしてる人がいるとかね」
「へ?」
「結婚したい人がいるとか——」
「待って待って待って」
次から次へと飛び出す弾丸に、アルドは思わず自身の言葉を被せた。口調がおっとりしているからか、かえって内容の突飛さが際立っている。
「なんで急にそんなこと聞くの?」
「え? あなたたち仲が良いから、そういう話もしたりするのかなって思って」
「じゃなくて。なんで急に姉ちゃんのそういう事情を知りたいと思ったの?」
焦る気持ちを抑えながら、一つ一つゆっくり解きほぐす。母の息子となって早二十年。その天然ぶりにはすっかり慣れたと思っていたのだが、どうやらまだまだ甘かったようだ。
息子の指摘に、当の本人は一瞬だけ目を丸くするも、今度は視線を下にずらし、娘に対する胸の内を静かに語り始めた。
「あの子、ずーっと『結婚なんかに興味ない』って言ってるでしょ? ……仕事もして、ちゃんと自立してるから、結婚したくなければそれでもいいかなって思ってはいるんだけど……それでも、いい人が見つかれば、一緒になってほしいなって」
それは、娘を想う母としての言葉。娘の幸せを心から願う、母としての言葉だった。
賢い娘。美しい娘。優しい娘。シルビアにとって、イザベラは自慢の娘だ。たとえ血が繋がっていなくとも。
つらい思いもたくさんさせたし、必要以上に我慢を強いたこともある。だが、不満を言われたことは、ただの一度もない。
結婚しないという意思が堅固なものであったとしても、それでも、自分たちのことを両親と——『家族』と慕ってくれた娘には、誰かと幸せになってもらいたい。父であるフォースも、きっとそう願っているはずだ。
むしろフォースのほうが、娘に対して抱いているものは大きいのかもしれない。病床に伏してる今だからこそ、思うことはきっとある。
「何か聞いてない?」
「……ごめん。聞いてない」
もっとも、思い当たることがないアルドは、眉を顰めて声を落とすことしかできなかった。母の期待できるような情報は何も持ち合わせていないため、答えようにも答えられない。
少しだけ、胸がちくりと痛んだ。
母の姉に対する想いも、父の姉に対する想いも、姉の両親に対する想いも、すべて。
彼は、想像できてしまうのだ。
「あら、残念。……あの子ったら、なにもわざわざ自分から遠ざけるようなことしなくてもいいのにね」
息子の言葉を受け、溜息交じりに母が零す。言動とは裏腹に、その顔色はまったく沈んではいなかった。目元を緩め、ぬるくなったコーヒーを一口含む。
すると、今度は短く溜息を吐き、嬉々とした声色でこんなことを言った。
「まあ、今はいいわ。……あなたはお付き合いしてる子いるんでしょ?」
「っ!? なんで知って……」
「イザベラから聞いたの」
「~~っ、あんのお喋り……っ」
まさかの展開に狼狽えるアルド。まったくもって予想外だった。
べつに隠すつもりはないけれど、母親に露呈したこの現状を、恥ずかしくないなどと思えるわけがない。彼とて、年頃のおとこのこなのだから。
「また今度、お話させてちょうだいね」
「えっ、会うの? 彼女に?」
「あら、ダメなの? だって結婚するんでしょう?」
「……だから母さんはぶっ飛び過ぎなんだって」
滔々と、無情に流れる時の中。
今までと同じようにはいられないし、受け入れなければならない現実も、刻一刻と迫っている。
でも、だからこそ。
家族の絆を、その存在を。
彼らは、しかと感じていたかった。
◆ ◆ ◆
頭が痛い。体が怠い。気が重い。
今朝起きた際、これらの症状がイザベラを畳みかけるように襲ってきた。加えて、鏡に映った自身の顔といったら、筆舌に尽くしがたい酷さだった。
眼の下の隈をどうにか隠し、血色の悪い肌をどうにか誤魔化し、暗然とした思いを引き摺りながら出勤した。
午前中の記憶はほとんどない。気がつけばデスクワークをすべて終わらせ、気がつけば午後になっていた。
理由は明白。昨夜、彼女は一睡もしていないのだ。
普段まったく気にならない秒針の音が、昨夜はやけに耳についた。寝ようとすればするほど、体の内側で低く大きく反響した。
その理由もまた明白。——昨日、偶然街中で見かけた、彼のせいだ。
あれからずっと、イザベラは悶々とし続けている。仲睦まじい二人の姿が、何度も何度も脳裏に映し出された。
「……」
あの女性はいったい誰なのか。彼が自分に一目惚れしたと言ったのは本心だったのか。
自分はどうすればいいのか。どうしたいのか。
……わからない。
まるで鎖にでも繋がれているかのような足取りで廊下を進む。途中、挨拶を交わした人々の顔さえも、あまり覚えてはいなかった。
陰々鬱々としながら突き当たりに差しかかった。
ちょうどそのとき。
「おっ、見つけた」
「!!」
その突き当たりを曲がってきたイーサンと、ばったり鉢合わせしてしまった。なんというバッドタイミング。
しだいに激しくなる鼓動を自覚する間もなく、瞠目したままその場に固まる。
刹那、イザベラの思考は、完全に停止した。
「今日は忙しいのか?」
いつもならば、中庭で読書をしている時間のはず。そう認識しているイーサンの、素朴な疑問だった。
「……」
彼の声は届いている。届いているのだが、少しも応じることができなかった。頭が、口が、うまく動かない。
目を合わせることもできず、かといって逃げ出すこともできず。
彼女の表皮を取り巻く時間だけが、ぬるぬると過ぎてゆく。
「……大丈夫か?」
明らかに様子のおかしいイザベラに、眉尻を下げたイーサンが問いかける。心配そうに、不思議そうに。
「……っ」
ようやく結んでいた唇を解き、何か言おうとするも、言葉を紡ぐことができなかった。
忙しい? ——べつに忙しくなんかない。
大丈夫? ——全然大丈夫なんかじゃない。
悶々と、ぐるぐると、これらの自問自答が脳内で渦を巻き始めたとたん、イザベラの胸奥からさまざまな感情が沸々と湧き出してきた。
粘ついた、鈍色の感情。
「……もう、やめませんか」
「え?」
もう——
「私のこと、構わないでくれませんか」
——止められない。
「なんだよ、いきなり。どうし——」
「私なんかより素敵な方いるじゃないですか。私じゃなくてもよかったんじゃないですか。どうして私じゃなきゃなんてあんなこと言ったんですか?」
湧き出した感情が溢れ出す。直前まで押し黙っていたことがまるで嘘のように、イザベラは自身の感情を正面からイーサンにぶつけた。
飾り気のない、混じり気のない、真っ直ぐな気持ち。頭よりも先に口が動いてしまう。
こんなにも自身の内側を曝け出すのは、生まれて初めてのことだった。
「ちょっ……ちょっと待てって! お前誰のこと言ってんだ?」
「とぼけないでください! 私、昨日見たんですから! 少将が可愛らしい女性と一緒にデートしてるところっ!」
「デートぉ!? 俺が? …………あ。」
まるきり身に覚えがないといったふうに紅蓮の瞳を見開き、イーサンは盛大に声を発した。……が、それもつかのま。彼の中で、何かが一本に繋がったらしい。
「忘れたんですか!? この期に及んでまだしらばっくれるんですかっ!!」
しかし、イザベラの勢いが衰えることはない。イーサンの表情の変化に気づける余裕など微塵もない今の彼女は、まさに決壊したダムだ。
だが、次にイーサンの口から告げられた真実により、彼女の言葉の弾幕はぴたりとやんだ。
「待て待て待て待て! 忘れてもねぇし、しらばっくれるつもりもねぇよ! ありゃ俺の妹だ!」
「…………へ?」
予想だにしていなかった返答。なんとも素っ頓狂な声をあげ、イザベラは再び固まってしまった。
ぽかんとしているイザベラに、イーサンが語調を強めて念を押す。
「妹! 実妹! 血の繋がった家族だっ!」
なんと、あの小柄で可愛らしい竜人女性は、彼の妹だったらしい。
それも、正真正銘、血の繋がった。
衝撃の告白に、再度思考の停止してしまったイザベラだったが、すぐさま正気を取り戻し、これに反応した。
「……嘘っ!! 全っ然似てないっ!!」
「悪かったな!! 俺は親父似であいつはお袋似なんだよっ!!」
軍本部の主要な一角。いくら休憩時間とはいえ、ここで繰り広げられるには、あまりに珍事なこのやり取り。周囲に人気のないことが幸いだった。
イーサン曰く、昨夜の彼女は、六つ離れた自身の妹とのこと。
ともに実家を離れて暮らしているゆえ、久々に会って食事をしていたのだそうだ。……というのはついでで、この春就職した彼女に、就職祝いとして腕時計をせがまれたらしい。
そういえば、イザベラが二人を見かけたのは、ファッションアクセサリーで有名なブランドショップの前だった、ような気がする。
「……」
「……」
「……」
「……納得していただけましたでしょうか」
すべての謎が解けた今。
「……っ」
イザベラの顔が、火を噴いた。
恥ずかしい。恥ずかし過ぎる。穴があったら入りたいとか、もはやそんなレベルではない。……埋まりたい。
「なに? もしかして俺に興味持ってくれた?」
「!!」
「…………え。マジで?」
「~~っ、知りませんっ……!!」
すべての謎が解けた。解けてしまった。
彼女の正体も、彼の本心も、
自分の、気持ちも。
右手で口元を覆い、照れくさそうに頬を赤らめる彼に対し、イザベラはつい顔をそむけてしまった。
けれども、その頬は、彼以上にあかく——朱く、染まっていた。
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