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第7話
「……そんなふうに見られると味がわからないんですけど」
「ん? ああ。悪ぃ悪ぃ」
先ほどからずっと注がれているイーサンの視線。堪え切れず、イザベラはぽつりとこう漏らしてしまった。対座する彼に向かって上目遣いで抗議する。
とはいえ、悪気などまったくない彼は、腕組みをしたままカラリと笑うだけだ。
二人が座っているこの場所は、いつもの職場の中庭ではなかった。
頭上で緩やかに回転するシーリングファン。インテリア性を重視したお洒落なテーブルセット。
建物から小物にいたるまで上質な木材にこだわっているここは、イーサンお馴染みの喫茶店であった。明るく落ち着いた雰囲気の店内には、芳しい飲食物の香りが漂っている。
いったいどうしてこんなことになってしまったのか。
それは、今から遡ること半時間前。イザベラが休憩時間に入ってすぐのことだった。
例の一件以来、またしばらく顔を合わせていなかった二人だが、この日はたまたま廊下で鉢合わせしてしまった(「しまった」は、言わずもがなイザベラの心情である)。
予想通りというべきかなんというべきか。
イーサンの姿が視界に入ったとたん、イザベラはぎゅいんと体を百八十度転換し、彼の前から逃げ出そうとしたのだ。それはそれはものすごい勢いで。
けれども、その勢いとスピードを上回る瞬発力で一歩踏み出した彼により、彼女はパシッと腕を掴まれてしまった。
実に見事な捕獲術。
少々抵抗を試みたものの、もちろん力で彼に敵うはずなどなく。そのまま職場近くのこの店に連行されたというわけである。
いつもなら、とくに追いかけることもしないイーサンだが、この日は違っていた。ある意味、これまでで一番強引な行動に出たと言えるかもしれない。
以前から再三にわたって口にしていた『デートのお誘い』。本日、ついに彼はこれを実行へと移したのだ。
イザベラはベルガモットを、イーサンはコーヒーをそれぞれ注文し、ついさっき届けられたばかり。
そうして、今に至る。
「美味しゅうございますか?」
「……美味しいです」
茶目っ気たっぷりのイーサンの問いかけにイザベラが頷く。相変わらず表情は柔らかくないが、どうやら味は申し分ないようだ。
彼女のこの反応に、彼は『そっか』と一言だけ返した。目元に温色を滲ませ、どことなく安心した様子で自身もコーヒーを一口啜る。
いつもと同じ味。けれども、今日はほんの少しだけ、甘く感じた。
「お前さん、紅茶……ってか、ベルガモット好きなのか?」
「……え? どうして、ですか?」
「いや、なんつーか、迷いがなかったから。選ぶのに」
自分でも何を尋ねているのかと一瞬小首を傾げたが、無駄に緊張している相手の心をほぐすにはちょうど良かったのではないかと思い直した。
事実、イザベラはわずかに怪訝な顔をしながらも、わりと素直に彼の質問に応じてくれたのだ。
「……好き、ですね。父がよく好んで飲んでいたので」
和らいだ表情。萌葱色の瞳に宿ったのは、懐古の色だった。
大好きな父、父が大好きな紅茶——ただそれだけの理由で、イザベラはベルガモットを嗜むようになった。きっかけは単純だけれども、気づけば自ら進んで欲するようになり、いつしかお気に入りの一品となっていた。
淡彩を帯びた彼女に、イーサンの胸がドキリと高鳴る。いまだかつて見たことのない彼女の姿に、彼の心はぐっと掴まれ、よりいっそう引き込まれてしまった。
彼女に対する想いが、また一段と色濃くなってゆく。
「敬愛してるんだな。親父さんのこと」
「……はい」
「軍医になったのも、親父さんの影響?」
思わず訊いてしまったが、言うやいなや後悔した。
いくら彼女が一言二言返してくれたからといって、これはあまりにも掘り下げすぎたのではないかと自責した。想像することしかできないが、おそらく彼女の生い立ちは非常にデリケートだ。
質問を撤回しようと、口を開きかけた。
次の瞬間。
「軍医……というか、医者になったのは、父の影響が大きいかもしれません」
イザベラが、答えてくれた。
予期せぬ反応に意表を突かれ、イーサンは自身が言い出したことにもかかわらず戸惑ってしまった。もちろん嬉しくないわけじゃない。むしろその正反対だ。
とはいえ、これ以上話を広げれば、彼女の気分を害する可能性もある。もっと言えば、深い傷口を抉ることにもなりかねない。
だが、それと同時に、もっと彼女のことを知りたいという欲求が生まれてしまった。
相反する二つの感情がせめぎ合う。
それでも、勝利をおさめたのは後者だった。
「同じ分野で働きたかったとか、そういうことか? でも、親父さんは薬剤師だよな?」
「……教えてくれたから」
「え……?」
「教えてくれたから。命の、重みを」
そう言って、イザベラは俯いた。顔を隠すように項垂れた。
かといって、語調が乱れたわけでも、声のトーンが低くなったわけでもない。かえって落ち着いているようにも見受けられた。
緋色の双眸に映り込む麗しい花。薄紅色の蕾が綻ぶように、彼女はゆっくりと語り始めた。
自身の過去を。
先刻、彼が回避を試みた、彼女自身の過去を。
「私が養女だということはご存知ですよね」
「え? あ、ああ。確か、幼少期に社長夫妻に引き取られたんだよな?」
「はい。それまでは、施設で暮らしていました。とくに嫌な思いをしたことはありませんが、楽しいとか嬉しいと思ったことも一度もありません。もちろん感謝はしています。衣食住を与えてくれ、ある程度の教育も受けさせてくれましたから。でも……」
ここまで淡々と話し切ったイザベラだったが、急にその声が鈍色に染まった。顔色を窺い知ることはできないが、きっと声と同じような色をしているに違いない。
止めようと思った。もういいと、彼女の言葉を遮ろうと思った。数分前の自分をぶん殴りたいと思うほどに、イーサンは悔悟の念に駆られていた。
けれど、それはできなかった。好意を抱いている人物の核心に迫れる機会。それを逃すことを惜しんでしまったのだ。
なんてあさましい。
自分に対する侮蔑を覚えざるをえなかった。
「……でも、当時の私は、生きることを諦めていたんです」
そしてイザベラは、鈍色の声のまま話を続けた。
血の繋がった親に捨てられたこと。生まれながらに患った心臓のこと。施設に看過されたこと。
将来に、絶望したこと。
「……っ」
次々と語られる衝撃の内容に、かける言葉が見つからない。
自分が望んだことだろう——イーサンはそう心の中で呟くと、自分で自分の胸倉をつかんだ。
しかし、イーサンとは対照的に、イザベラの纏っているオーラは、徐々に穏やかなものへと変わっていった。項垂れていた角度が緩やかになり、その貌が明らかとなる。
彼女は、笑っていた。
「クイン家に引き取られてすぐに手術を受けました。……手術を受けて、健康な体になって、ようやく将来が見えたときに『ああ、これで生きられるんだ』って……『生きなきゃ』って……そう、思ったんです」
自分は長くは生きられない。そもそも自分は捨てられた子。イラナイコ。
そんなふうに悲観していた。
——お前は私たちの大切な娘だ。大丈夫。必ず元気になる。
だが、両親が愛情をもって救ってくれたことにより、目の前が一気に明るく拓けた。『イラナイコ』じゃない。『生きてもいい』のだと……そう、思うことができたのだ。
「……あの時の言葉は、お前さんの過去から生まれたものだったんだな」
「……はい」
この話を聞いてイーサンは納得した。あの時の言葉は、これらの過去に起因しているものなのだと。
命の尊さ、その重みを知っているからこその、叫びだったのだと。
「医者になるという夢を、両親は応援してくれました。必要な教育はすべて受けさせてくれましたし、進学先も自分で選択させてくれました。それから、就職先も」
「どうして軍医に?」
「……入隊した理由はいくつかありますけど、一番大きな理由は、軍が個々を評価してくれる場所だと思ったからです。家柄とか関係なく、純粋に、私自身を」
彼女のこの理由には、イーサンも大いに賛同することができた。なぜなら、これは彼にも通じることだからだ。
ゆらゆらと、まるで若葉のように萌ゆる彼女の瞳。力強く息吹くその瞳に、彼の紅蓮はかたく射止められた。
「それに——」
そして、
「——私は、この国が好きだから」
思わず、息を呑んだ。
胸が苦しい。張り裂けそうだ。しかも、熱い。
——この国を守る。
士官学校へと入学した当時の記憶がまざまざと蘇った。先祖代々受け継いできた地位を捨て、入隊すると決意を固めたのは、この国が好きだから。
ちりちりと焦げつくような感覚。ぴりぴりと電流が巡る感覚。
どちらともつかぬ感覚にとらわれ、イーサンは自身が今どんな顔をしているのかさえもわからなかった。
「……ほんとに敵わねぇな」
「え?」
「いや、なんでもない。お前さんを好きになって良かった」
「!?」
唯一わかるのは、彼女への気持ちがさらに強くなったということだけ。
想いが、さらに大きくなったということだけだ。
それからほどなくして、二人は店を出た。もう間もなく、休憩時間は終了する。
まるで完熟林檎のように顔を真っ赤にしたイザベラを、イーサンはからかい混じりに宥めすかした。それが余計気に入らなかったのか、頬をぷくっと膨らませた彼女にジト目で睨まれてしまった。が、そんなことをされたところで、痛くも痒くもなんともない。可愛さに拍車がかかっただけである。
店を出る際、どちらが支払うかというちょっとした問答が発生したが、至極当然と言わんばかりに彼が支払った。ここでも彼女は不服そうな顔をして見せたが、彼はまったくお構いなしだった。
微睡を誘う昼下がり。
心地好い風が、並んで歩く二人の間を通り抜けてゆく。
「いい風だな」
深く息を吸い込むと、胸がすくような青々とした香りが鼻の奥に漂ってきた。イーサンの言葉に、イザベラが静かに首肯する。
ヒトと竜人とでは嗅覚の鋭さに差があるゆえ、どうしても感じ方は異なってしまうが、互いに思っていることは同じようだった。
路地を照らすのどかな日差しにうらうらとする。
本部まであと少し。これから屋内で仕事をするのかと考えると、なんとなくもったいない気がした。
「あ、あの……」
不意に、イザベラが声をかけた。
彼女のほうから話題を切り出すのは、本日初めてのことである。
「どした?」
「あの……今日のこれって……」
「うん」
「……デー、ト……ですか?」
「……ぅん?」
綺麗に整った顔で突然何を言い出すのかと思えば、それはそれはなんとも愛くるしい質問だった。
完璧に不意打ち。
一瞬目が点になるも、あまりの愛らしさに、イーサンは思わず吹き出してしまった。
「……ふっ、あはははっ!!」
「なっ、なんで笑うんですか!?」
その場に立ち止まり、腹を抱えて笑いこけるイーサンに、イザベラが目を見開く。自身の質問のどこにそんな爆笑要素が含まれていたのか、まったくもって見当がつかない。
なんだか面白くない。すこぶる面白くない。
先ほどと同様、彼女はもう一度頬を膨らませ、目を据わらせた。
「はーあ。あー、久々にこんな笑ったわ。……くくっ……、っ……」
「もうっ!! なんで笑うんですかっ!! 私、真剣なんですよっ!?」
「悪ぃ悪ぃ。ってか、俺だってべつにふざけてるわけじゃねぇよ」
「私のこと馬鹿にした」
「してねっつの。……あんま可愛いことばっか言ってっと、本部まで仲良く手ぇ繋いで帰んぞ」
「!?」
「今のは冗談」
「〜〜っ!!」
からかい、翻弄する熊。すべては花を愛でるがためだ。案の定、彼女はまたもや膨れてくれた。
手を繋ぐことを思い浮かべるだけで過剰に反応してしまうあたり、やはりまだまだ初心である。
「俺はデートのつもりだったんだけどな」
「えっ、で、でも……」
「わかってる。お前さんの気持ちを知った今でも、強要するつもりはねぇよ」
なぜ、イザベラがわざわざ『これはデートか否か』などと確認したのか、イーサンにはわかっていた。
そもそも、二人は付き合っていない。両想いであるということは(ひょんなことから)確認できたけれど、『付き合いましょうそうしましょう』といったやり取りを交わしたわけではないのだ。
つまり、彼女の中では、自身とイーサンはまだ交際関係にないのである。そして、その境界線の内側に入ることを、なおも彼女は逡巡している。
初心に加えて、真面目一辺倒な彼女のことだ。その辺りの線引きにこだわるのも、ある意味致し方ないことなのだろう。
「けど、お前さんとそういう関係になれたらいいなって、俺は思ってる」
「少将……」
じれったい、滑稽だという意見もあるかもしれない。しかし、イーサンはそうは思わなかった。
何よりも尊重すべきは彼女の気持ち。彼女の心の準備が整うまで、待つ覚悟はできている。
それに今日、こうして一緒に過ごしてくれたばかりか、彼女にとってかけがえのない想いを語ってくれたその事実だけで、イーサンは十分幸せだった。
心地好い風が、並んで歩く二人の間を通り抜けてゆく。
後方から流れてきたそれは、二人の背中をそっと押すと、清爽な空気の中へと溶け込んで消えた。
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