8人が本棚に入れています
本棚に追加
雫がとぼとぼ歩くから、帰り道がひどく長く感じた。手を繋いで帰るのはいつぶりだろうと壮は考えてみた。思い出せないくらい幼い頃だけな気がした。雫が手を繋ぐ相手は別に居る。雫の特別な人だ。
俺だってあいつに負けないくらい雫が好きなのに……と切なくなっていたら、そのまんま口に出ていた。俯いた雫が、また泣いているようだった。
雫の住むマンションの前に着くと、壮は早く中に入れと急かした。これ以上は耐えられない。歯痒さに押しつぶされてしまいそうだ。
しばらく手を離してくれなかった雫がいよいよ手を離した。別れの時が来てしまった。もうすぐ夜になってしまう。子供の一日は短い。一日がもっと長ければいいのにと、壮はなんだか悔しくなった。早く帰れと急かしつづけているのは自分なのに。
「壮君が、先に行って」
涙声で嗚咽をあげながら雫が言った。
「明日、お見送りできないから、今お見送りするの」
壮はほんの少しの間だけれど言葉が出なかった。見送ってほしくなどなくて、ただ、またねと言ってさよならをしたかった。また明日とは言えなくても、また会えるのだから、またねと言いたい。
「じゃあな、雫。俺のこと、忘れるなよー」
最後まで湿っぽいのは嫌だった。だから壮は必死にいつもの口調を取り繕った。なんて名残惜しいのだろう。また会えるのだからと雫に言い聞かせておきながら、自分だって寂しくて悲しくて心細い。そして切ない。
背を向けて去ろうとする壮を、雫はぼんやりとした心地のまま見つめていた。
急に胸の奥からなにかが込み上げた。そうして言葉やなによりも先に体が動いた。
行かないでほしくて、無意識に壮のシャツを握っていた。
驚いて立ち止まった壮の耳に、小さな呟きが聴こえた。
「壮君、好き……」
昼と夜の間のほんの少しの時間。もっと長ければいいのにと、壮は空を仰いだ。雫がシャツを手放すまでの時間はやたらと長く感じたのに、空はどんどん姿を変えている。
好きだと言った雫の声の切なさは小さな小さなものだったのに、やたらと鮮明に耳の奥まで響いた。
ぐすぐす涙を啜る音とマンションのエントランスへ駆けていくばたばたとした足音が聴こえなくなるまで、壮はその場で立ち尽くした。
雫が自分のことをそんな風に思っていたなんて思いもしなかった。自分は二番目だと思っていた。二番目くらいには居られたらいいなというくらいだった。
特別と好きは違うのかなと、壮はぼんやりと思った。
嬉しいのに悲しくて寂しくて苦しくて、雫も同じ風に感じていたのかなと思うと切なさがあとを引いた。
まだ子供だけれど、子供でも真剣に恋をする。となりに居たいから、となりに居てもいい自分の姿で一生懸命に。
ほんの少しのお別れは永遠の別れじゃないとちゃんと伝えなければいけなかったのに、きっと伝わっていないような気がした。一生懸命に恋をしているから。
昼が終わって空が夜の準備をして、気が付けばもう夜がやって来ている、まるで短い子供の一日。
あの日は特に短くて、でも長くて、鮮明に刻み込まれて忘れられない。
雫のことを思うといつでも壮は元気に笑えた。離れていても馳せるだけで元気になれる。
けれども。
日暮れに雫のことを思うと、あの切ない声が胸の内にこだまする。
最初のコメントを投稿しよう!