蛇の如く

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 ────────  ────────────……  全部の授業が終わって人気のなくなった教室に居るのが好きだ。  生徒たちが居なくなって籠った熱気がなくなり、窓の外からは運動部の掛け声と微かに聞こえてくる吹奏楽部の演奏。それと気の早い虫の音色。それらが聞こえてくるこの空間に、ひとりきりで身を置いているのが好きだ。  家に帰りたくないわけではない。友だちが居ないわけでもない。けれど大人数が過ごすこの学校という限られた空間の中にひとりで過ごすこの時間が意外に心地好かった。  何をするわけでもなく、スマホを触ったり持ってきていた文庫本を読んだり、窓からグラウンドに居る生徒たちを眺めたり……いつもそんな具合。  その日も、文庫本を読むのにもちょっと飽きて窓の外を眺めていた。グラウンドには下校していく生徒の後ろ姿。あいつ背高いな……あの娘髪長いなぁ……あいつらあんなにはしゃいで小学生かよ……思うことはそんなくだらないことばかり。  その中でなぜかひとり──ピリッとした何かを感じた後ろ姿。  遠目からでも判る艶やかな長い黒髪。留めていたゴムを(ほど)いた瞬間に流れた豊かな漆黒。その一連の動作を目撃した瞬間、身体に電流が走ったようだった。  髪を解いただけなのに──釘付けになった。  あれは誰だ? 他学年か。顔が見たい。後ろ姿だけでも見続けていたい。あの艶やかな髪を触ってみたい。あれは誰だろう。誰だ。誰だ。  思考はぐちゃぐちゃで、脈絡のない衝動が身体を駆け巡る。  昼の熱を孕んだ気怠さから、夜の妖しい闇を含んだ移り変わりの時間──誰も彼も姿が霞んで、陰と陽が交じり遭う。落ち掛けた陽の光りで影が長く伸びる。そんな中で見た、漆黒の闇を長い黒髪に移した人物。  視線を外せずにいると、長い毛先に変化が起こった。起こったように見えた。  毛先が重力に逆らって持ち上がった。持ち上がったそれはまるで黒い蛇のように鎌首を上げて口を開けて舌を出す。  目を疑った。まさか。そんなことがあるはずない。目の錯覚だ。いや、でも……今確かに髪の先の蛇を見た。  凝視している先で、その髪の持ち主の横顔がチラリと見えた。真っ赤な唇。それが妙に扇情的で(なまめ)かしく感じた。心臓がドクドクと鼓動を激しくする。息が上手く出来ない。呼吸をするのことに神経を使うなら、その神経さえも視覚に回して艶やかな髪の主を見ていたい。  あれは誰だ。思わず窓から身を乗り出したけれど、顔が見れるはずもなく。声を掛ければ良かっただろうけれど、喉を震わすことも出来なかった。  髪の先に蛇を宿した人物は、長い影を従えそのまま歩き続け視界から消えた。  ────この日から、あの漆黒の髪が忘れられなくなった。  毎日毎日、放課後グラウンドを見つめる。もう一度、もう一度会いたい。あの艶やかな漆黒の髪を見たい。  そう思ってずっと待っているのに、あの日から一度も会えない。いつになったら会えるだろう。昼と夜が交じり遭うあの黄昏時──あの時に、何処かと繋がったのだろうか。  誰も彼もが姿が朧気になるあの一時。  そもそもあの人物はこの世の人物なのか。何にも判らないけれど、それでももう一度会いたい。  今日も窓からグラウンドを眺める────あの漆黒の蛇に魅入られて……
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