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夕刻、まだ帰宅には早い時間帯は下り電車も空いている。シートに座って揺られながら、聞こえてきた言葉に驚いて反芻した。
「えっ、三月?」
隣を見れば、なんでもないように足もとを見つめていた葵くんが、こちらを向いて頷く。
「嘘でしょ」
「そんな嘘ついてどうすんだよ」
「そうだけど……」
「花さんは?」
「九月……」
付き合い始めて数週間。四月に入り、ようやく私の仕事も落ち着いた。葵くんは大学と学童の合間を縫っては私との時間を作ってくれて、週末にはこうしてゆっくり出かけることも出来るようになった。
誕生日がいつなのか、なんとなく聞いただけだった。付き合うことになったのだからちゃんと祝いたいし、それなら予め知っておきたい。四月に入ったばかりだから、当然のようにまだ先のことだと思っていた。なのに、返ってきたのは予想外の返答だった。
「九月の何日?」
聞きながら葵くんが携帯を取り出す。カレンダーが見えたので、書き込もうとしているのだろう。
「予定開けとく」
「私はまだ先だよ」
「俺のほうがもっと先じゃん」
「いや、先っていうか……」
先月過ぎたばかりの誕生日を、先のことと言っていいのか。思えば、彼の好意を私の弱さで拒絶し、傷つけ、また私に会いに来てくれた日までの間、きっとそれなりに落ち込んでいたはずだ。そんな中で誕生日を迎えさせてしまったのかと思うと、心が痛む。
「今度、ちゃんとプレゼント渡すから」
「そんなのいいよ」
「駄目だよ。私がちゃんと、お祝いしたいの」
そう言うと、きょとんと目を丸くし、小さく頷いて目を逸らされてしまった。きっと喜んでくれているのだろうと、なんとなく分かる。
「ちなみに何日?」
「五日」
もしかしたら付き合い始めた後かもしれないという期待は、儚く散った。
これから学童のバイトだという葵くんを途中の駅で見送り、そのまま家の最寄り駅まで揺られる。お祝いがしたいのだと自分から言っておいてなんだが、何を贈ればいいのかさっぱり思いつかない。
駅に着き、スーパーで買い物をして帰路を歩き、家の玄関を開ける。その間ずっと考えていたけれど、ぱっとしない物しか浮かばなかった。
夜、夕飯を食べていると真希ちゃんから電話があった。慣れ親しんだ仲なので、まぁいいか、と手を止めずに通話に出る。
『花ちゃん、なんか食べてるね』
「うん」
『行儀悪いなぁ』
口に頬張り、もごついていたのがバレたらしい。さして咎めるようでもなく言うと、電話口の向こうからプシュ、と缶ビールの開く音が聞こえた。
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