はじまり

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何やら凄い人らしい男はふっと息をつくと、こちらを振り返る。彼もまた長身で、おれを見下ろす顔はやたらと整っている。銀色の長い髪をひとつにくくり、結んだ先は前に流すように垂らされている。一見すると女性的な髪型すらかっこよく似合っていて、大人びたイケメンだな、と思わず見つめてしまいハッとする。助けてもらったのだった。 「あ、あの、ありがとうございます」 まだ安心には至らず、声が震えた。先ほどまで体中をまさぐられていた感覚がゾワッと蘇り、体が小さく震える。それに気付いたのか、男は安心させるように優しく微笑んだ。 「いや、君を助けるのは当然のことだよ。……今の格好は目に毒だな、縄を解こう」 「っ、お願いします」 後ろを向こうともぞもぞ動くとそれを制され、おれの後ろに回ってくれる。固く結ばれているようで、男は先ほどの暴漢たちと同じように縄も切り刻んでしまった。自由になった手首は、暴れた際に擦れたのか赤くなっている。ヒリヒリとした痛みに薄れていた恐怖心がじわりと顔を出す。 怯んだまますぐに動けないおれに、男は羽織っていたコートをかけてくれる。しっかりとした素材らしくずしりと重たい。真っ白なそれを汚してしまう、申し訳ないから返そうと男を見上げると、また優しく微笑まれてしまう。 「怖かっただろう。落ち着いたら衣服を整えるといい。私は上着を返してもらえるまで、ここにいる」 「あ、す、すみません…っあ、りが、っ、うぅっ、」 せっかく止まった涙が溢れ出す。ここでやっと自覚した。おれはずっと怖かったのだ。泣き出したおれの傍らに男は膝をつき、そのままおれの頭をそっと胸元に押し付ける。柔らかな声色で「思い切り泣くといい」と言われれば、もう涙は止まらなかった。 そのまま涙も鼻水も気にせず男はおれの背中を支え、幼子をあやすように頭を撫でてくれていた。一度堰を切ったように溢れた涙はしばらく止まらず、嗚咽を漏らしながらおれは男に縋った。 しばらくそうやってみっともなく泣いて、だんだんと落ち着いてきて泣き止んだものの、今度は羞恥心にまみれて顔をあげられなくなってしまった。それもお見通しなのか、男はおれの背中に手を回したまま頭をぽんぽんと撫でながら「大丈夫?」と声をかけてくれる。その声に、ゆっくりと顔を上げた。 「ずびばぜん」 「はは、ひどい顔だ」 「……ぱんつとずぼん、はいていいですか」 「その前に、顔を拭いてあげよう」 さっと白い布を取り出しておれの顔面を拭ってくれ、汚れたはずのそれを何も気にせずポケットに戻した。まるで親のような振る舞いをする男に気恥ずかしくなる。湿った感覚に気持ち悪さを覚えながらも衣服を整え、借りていたコートを返す。男と並んで立つと、やはり背が高い。 「本当にすみませんでした。ありがとうございます」 「気にしないでほしい。名乗っていなかったね、私はセルジール。君を迎えに来た」 「おれは宇佐美朋也です。……迎えに、ってどういうことですか?」 「トモヤ、どうか驚かないで聞いてほしい。……君は、この世界の人間ではないね」 どういうことだ、と言葉を返せずにいると、セルジールは少し困ったように笑う。 「この世界には、異世界からよく人間が渡ってくる。何かの拍子にこちらと繋がって、たまたまこちらに来てしまうらしい。原因はわかっていないが、私たちは異世界の存在を知っている。君の名前と似た響きの者もいたよ」 「えっと、おれ、あの、トイレが光って、それで」 「トイレ? ああ、あれはトイレではないよ。しかし、そうか、あれが原因か」 セルジールさんは一人で納得したように頷いているが、話についていけない。さすがにここが日本ではないことも、地球上のどこでもないこともわかっている。彼の言うようにおれが別の世界に来てしまったのだろう。そんな人間が、おれ以外にも過去にいたという。とうてい信じられなかった。 「おいで。君が異世界から渡ってきてしまった人間なら、戻ることができる」 「え!? 戻れるんですか……?」 「世界を渡っても、魂はそれぞれ元いた世界に属している。君はあれが原因らしいから、きっとすぐ戻れるよ」 「そう、なんですか」 いまだ理解はできていないが、ただひとつ元の世界に戻れるらしいことはわかった。安堵していいはずなのに、こんなにあっさり帰れるものなのかとまだ半信半疑だった。 トイレではないという白い建物に誘導され、いざ入っていみると確かに内装はトイレではない。ただ白い空間で、個室だの道具入れだの手洗い場だのはない。相変わらず埃ひとつないきれいな床と壁だ。天井を見ると、蛍光灯らしきものはないのに明るい。壁そのものが発光しているようだった。どこまでも不思議空間だ。 キョロキョロしていると、セルジールさんは入ってすぐ左手の壁の前で立ち止まる。手招きされ、おれもその隣に並んだ。 「なんと言ったらいいかな、ここは神託を受けられる場所というか、この国の神とあるていど繋がれる場所なんだ。君が渡ってきたことも、別の場所にあるこの建物で教えてもらった」 神聖な場所だったのか。公衆トイレと信じて疑わなかった自分が少し恥ずかしいし、申し訳ない気持ちになった。それにしても、この世界はずいぶんとファンタジー色の強い世界のようだ。暴漢たちも魔法の存在がさも当たり前のように認識していたし、セルジールさんからも魔法だの神様だのといった単語が当たり前のように飛び出す。 「神様、ですか。魔法といい、おれのいた世界とはぜんぜん、違いますね」 「トモヤの世界には、魔法も神様も存在しないのか? どんなところか、ゆっくり聞きたかったな。きっと世界は無数にあるだろうから、興味深い」 「存在しているか、わからないもの、みたいな感じです。おれには、まだちょっと信じられなくて」 「私たちだって、異世界から渡ってきた者の存在をすぐに信じたわけではないよ。無理もない。……じゃあ、始めようか」 「お、お願いします」 柔らかい表情で話していたセルジールさんの表情が引き締まる。神様と繋がれる、と言っていたし、やはり集中力が必要なんだろうか。おれも思わず姿勢を正す。 セルジールさんが真っ白な壁に手をかざし、目を閉じる。少しすると壁が輝きだした。おれが見たものより弱いものの、それでも眩しく光りだす。それと同時に魔法陣のようなものが浮かび上がり、幾度も幾度も模様を変える。そのあまりに現実離れした光景に、ぽかんと口を開けて見ていることしかできない。 かざす手はそのままに、セルジールさんが目を開ける。どこかホッとした表情でこちらを見る。 「……よし、トモヤ、この魔方陣の光が収まる頃には君は元の世界にいるはずだよ」 「あ、ありがとうございます。……本当に、お世話になりました」 「どうか、元気で。たまにこの世界のことを、思い出してくれると嬉しい」 「はは、忘れられないと思いますよ」 話しているうちに光はだんだん強くなっていく。あまりの強さに目を閉じた。あのときと同じ光だと直感して、これが収まったときには元の世界に戻れるんだなと不思議な感覚にひたる。 おれは改めてセルジールさんに向かって頭を下げて「ありがとうございました」と呟く。きっともうセルジールさんも目を閉じているだろうから見えないだろうし、聞こえるかもわからない。見ず知らずのおれを助けてくれて、優しくしてくれた。それがセルジールさんの仕事だとしても、おれにはじゅうぶんすぎるくらいだったのだ。 感謝の気持ちが届けばいいな、と思いながらゆっくり頭を上げた。 だんだんと光は弱くなっていき、戻れることに安堵しながら、セルジールさんとの別れを惜しく思った。
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