はじまり

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ゆっくり目を開けると、目の前には白い壁。やっぱり公園の公衆トイレも壁きれいなんだ、と思うが、すぐ横にある人の気配に嫌な予感がする。まだ少しぼやける視界のまま隣を見ると、確かにセルジールさんがいる。 「トモヤ、なんで」 「いえ、わからないです……なにか、いけなかったんでしょうか」 「ちょっと待っていて」 焦ったようすのセルジールさんは、再び壁に手をかざす。先ほど同様に魔法陣が現れ、忙しなく形を変えていく。あの魔法陣で神様とやりとりしているのだろうか。戻れなかったことへの不安と、何か自分がやらかしただろうかという焦りにそわそわする。 「ごめん、手を貸してくれ」 「え、はい」 何をすれば、と思っているとセルジールさんの左手がおれの右手を掴んだ。物理的に貸すのか、と驚いていると そのまま壁に手を当てるよう促され、おれの手の上にセルジールさんの手が重なる。なんだろう。おれも神様と交信できるのだろうか。 少しドキドキしたものの、おれには何もわからなかった。おとなしく見ている間にも魔法陣は姿を変え続け、セルジールさんは真面目な表情で黙っている。整った眉がひそめられ、眉間に皺が刻まれている。 少しの間そうしていると、ふっと魔法陣が消え、またすぐに現れた。魔法陣の上に、何か文字が刻まれていく。知らない文字なのに、意味はわかる。文字を目で追って、絶句した。 『魂に刻まれしは契約ではなく呪縛である』 文字の意味はわかる。わかるが、どういうことなのかはわからない。それにしても、呪いとはずいぶん物騒だ。この物騒な文字列は、恐らくおれのことを言っているのだろうことは推測できた。魂というのが引っかかるが、おれが呪われている、ということだろうか。知らず知らず、誰かに恨まれるようなことでもしただろうか。 重ねられたセルジールさんの手は、緊張からか少し震えている。おれも手のひらに変な汗をかいている。そっと手が離れ、おれも壁から手を離した。 「トモヤ、結論から言う。君はまだ、元の世界に戻れない」 「そう、ですか……」 深刻そうな表情に硬い声。まだ、ということは、いずれ帰ることができるのだろう。それでも、今帰ることができないということは、おれが思う以上にまずいことなのだろうか。不安になって思わず目をそらす。 「……先ほど、魂は元の世界に属していると言ったね。それは契約のようなものだ。君が君の世界で生まれた瞬間に、君の魂にはその世界との契約が結ばれる」 「はあ……」 「私も例外ではない。きっと、私の知らない世界の者たちも、例外ではない。君は、本来結ばれるべき契約の前にかけられた呪いによってここに縛られている」 「えっと、よく、わかりません…けど、帰れないことはわかりました」 やっぱりいまいち理解できなくて曖昧に笑うと、セルジールさんは申し訳なさそうにこちらを見ていた。逆にこちらが申し訳なくなってしまうほどの表情に、何も言えなくなってしまう。 「急すぎたね、すまない。せめてトモヤにかかった呪いが解けるまで、私の屋敷にいるといい。信用に足る人間ではないだろうが、どうか信じてもらえないだろうか」 「そんな! ち、ちがいます! むしろおれのほうが、その、よそ者ですから……」 おれのなんとも言えない表情をどう取ったのか、セルジールさんは切実に訴えかけてくる。たしかに呪いのことはもちろん、全く知らない世界で過ごすことへの不安はあるが、セルジールさんのことを疑っているわけではない。むしろ「この人にこれ以上頼っていいのか」というのが今の心境だった。 「言ってはなんだが、異世界から渡ってくる者たちの対応は私たちの仕事でもある。それに、その、君はこちらに来てすぐ、辛い思いをしただろう、少しでも、安心できる場所になれると嬉しい」 「あ、あれは……。でも、本当にじゅうぶんすぎるほどです。…けど、行くあてもないですし、セルジールさんのお言葉に甘えます」 笑っておれが言うと、セルジールさんも「よかった」と破顔した。イケメンの心からの笑顔はきれいだ。おれもつられて思わず声をたてて笑うと、セルジールさんは少し驚いた顔でこちらを見た。 「トモヤは、不思議な魅力があるね。君が感情をあらわにすると、君の魔力が強くなる」 「魔力、ですか?」 「君の魔力は優しくてどこか甘い。先ほどのように触れていると心地よくて、だけどひどく不安定だ」 だから守りたくなるのかな、とセルジールさんは言う。おれには魔力がどうとか、ましてやその違いなんてわからない。わからないが、おれにも魔力があるらしい。なら、おれにも魔法が使えるのだろうか。不安や恐怖より、好奇心が大きくなる。 「あの、おれも魔法とか、使えるんですか?」 「もちろん。……ああ、君の世界では、魔法は曖昧なものだったね。だけど、君も魔法が使えるはずだよ。そこについても、私の屋敷で落ち着いてから説明しようか」 「お願いします!」 我ながら食いつくのそこかよ、と思うが、凡庸なおれに魅力があると言われもピンとこないし、魔力と言われてもいまいちよくわからない。それでも魔力があるなら、おれにも何か魔法が使えるのではないか、という期待に胸が踊った。 「ひとまず屋敷に戻るよ。私の手を握っていて」 「はい。……失礼します」 「っ、ふふ、なんだい、それは」 落ち着いて考えると、誰かと手をつなぐこと自体が少し恥ずかしい。幼い頃ならまだしも、おれはもう高校生だ。そう思って発した言葉がセルジールさんのツボに入ったらしく、声をたて、肩を震わせて笑っている。そんなに笑わなくても、と思いながらそっとセルジールさんの手を握る。 「ごめんごめん。トモヤは面白いな。……じゃあ、帰ろうか」 「はい……っ、え!?」 セルジールさんの言葉と同時に、足元に魔法陣が現れる。おれたちは再び強い光に包まれ、目を開けるとやはり目前には白い壁が広がっている。 「え、え? 今の、なんですか?」 「移動魔法だよ。といっても各地にあるこの建物から建物にしか移動できないんだけどね」 「移動、したんですか?」 「外に出てみようか。私の屋敷の敷地内のはずだよ」 「え、さっきので、ですか?」 いまだに信じられないおれの手を引いて、セルジールさんは建物の外に出る。日が傾きかけた空に、足元には緑が広がる。そして何より目を引く、大きなお屋敷。これが、セルジールさんのお屋敷なのだろうか。 「ほんとに、違う場所に来たんですね」 「驚いただろう。あれが私の屋敷だ。行こうか」 あんな大きなお屋敷だなんて、もちろん驚いたに決まっている。まだ混乱しているおれの手を握ったまま、セルジールさんはお屋敷に向かって歩き出した。
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