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はじまり
ほんの一瞬のことだった。
たった一瞬、光に包まれただけだった。
冬、寒くなると、高校からの帰り道は暗い。街灯はあるがまばらで、意味があるのかと問いたくなるほどだ。近道だからと通り抜けをしている公園も、消えかかった街灯がチカチカと不規則に点滅している。利用者がほぼいない小さな寂れた公園だから仕方ないのだろう。
それにしても、公衆トイレだけがいやに明るい。確かに薄暗い公衆トイレなんて誰も使いたがらないが、公園内の切れかかった街灯を放置していながら、公衆トイレの電気だけは煌々としているのは不自然だった。
何より、この公園のトイレはこんなにきれいに保たれていただろうか。仮に清掃が入ったのだとしても、よりにもよってトイレだけかよ、と思いながら通り過ぎようとするのだが、妙に気にかかる。
おれも暇人だ。委員会活動を終えて帰路につき、もう19時になろうかという時間だが、急いで帰る必要もない。なんでトイレだけ明るいんだ、どれだけきれいに保たれているんだろう、なんて至極どうでもいいことが気になった。気になったからには、見なければ気がすまない。
特に警戒もせず、ただただ好奇心の赴くままやたらきれいなトイレに足を踏み入れた。足元が明るく照らされ、塵ひとつないほど白く磨かれた床におれの影が黒く落ちる。その瞬間だった。
強い光が差した。
え、と思う暇もなく、白く輝く光はおれを飲み込んだ。あたたかいでも冷たいでもない。眩しいとはいえ不快でもなく、かといって心地いいわけでもない。なんだこれは、あの寂れた人気のないトイレで唯一誇れる公衆トイレで何が起こっているというんだ。
たった一瞬の強い光によって視界を奪われ、突然のことに身動きもとれない。閉じた視界はすぐに暗くなり、光がおさまったのだと気付く。ゆっくりと、何度も瞬きをする。いまだチカチカする視界を慣らしていき、なんとか元に戻ったことを確かめる。おれの視界に映るのは、あの白い白い床だ。
理解できないことが起きたのに不思議と恐怖心もなくて、おれはさっさと帰ろうと振り返り、そこで初めて異変に気付くのだった。
「……ここ、どこ」
振り返ると、夜の公園ではなかった。
日は高く、ヨーロッパにでも来たのかと思うような石畳と洋風の建物が並んでいる。道を一本挟んだ向こうは少し賑やかなようだが、薄暗く閑静なここは表通りから路地裏を抜けた先のようだ。
おれもファンタジーが好きな現代っ子である。あんな不思議なことが起こって、見慣れないどころか日本とは全く違った風景に、異世界トリップという単語が浮かぶ。とはいえ心からそう思ったわけではないし、確信もない。それになんだか懐かしい雰囲気だ。実はドッキリでした、なんてことはないだろうか。
ドッキリ。誰が、おれなんかに、こんな壮大すぎるドッキリをかますというのか。そんなことにまで思考が及ばず、とりあえず賑やかな通りに抜けようと細い道に歩を進めたその時だった。
ドン、と背後から何かがぶつかり、同時に「いってーな」という低く荒々しい声。
「え、すみません」
半ば条件反射で謝罪しながら振り返ると、体格がよく人相が悪い、全身で「俺は当たり屋だ」と言わんばかりの風貌の男が二人立っている。頭髪は緑と金、偏見だが完全に輩だ。見知らぬ場所で更にカツアゲでもされるのか、なんてついてないんだ、と思い身構える。
「いってーなあ! ぶつかっといて詫びもナシかあ?」
「詫び、ですか。それは言葉ではなく」
「こんだけ身綺麗にしてんだ、いいモン持ってんだろうが」
「いや、おれは、」
「言い訳すんのか? さっき謝った言葉は嘘ってことかあ?」
やっぱり輩じゃないか、とあたふたしているおれに、二人は言葉を募る。どうしたものか、と考えると同時に、違和感を抱く。今、目の前にいる二人の男はそれぞれ真緑と金の髪色をしている。体格がいいだけではなく、かなり背が高い。170ほどのおれが見上げるくらいで、2mはあるのではないだろうか。彼らの顔立ちは西洋人のように彫りが深く、とても日本人とは思えない。とはいえ、2mの西洋人だってそうそういないのではないか。
そして最も違和を感じるのは、おれが彼らと日本語で会話をしていることだ。
「あの。ドッキリですか?」
「あ?」
「どっきり、って何だ? 何言ってんだお前」
「いや、だって、言葉が」
「はぐらかそうってんならそうはいかねーぞ」
「何かしら金になるもん持ってんだろーが。早く出したほうが身のためだぜ」
にじり寄る男二人にじわじわと壁に追い詰められ、肩が壁にあたる。目前にはガラの悪い男二人。ドッキリじゃないなら、なんだって言うんだ。本当に異世界トリップなんだろうか。そんなことが、なんでおれに。せめてこの場を穏便に済ませたいが、持っていたはずの鞄はどこにも見当たらない。制服のポケットには何も入っていない。
「申し訳ないですけど、何も持ってないです」
「口ではなんとでも言えるよなあ」
「出さねえってんなら出させるまでだ」
「ほんとに、なにも、ちょ、はなせよ!」
苛ついたようすの緑髪の男が俺の肩を掴む。思った以上に強い力に、おれの肩が軋むような痛みを訴える。抵抗しようと身を捩り男の腕を掴むが、びくりともしない。緑髪の男はおれの抵抗をものともせず、そのままおれの体をひっくり返して羽交い締めにする。そのまま表通りからは死角になる場所まで引き摺られ、ここにきてようやく焦りだした。ドッキリなんかじゃない。本当に知らない場所にきてしまい、挙げ句の果てにはカツアゲされようとしているのだ。
「ちっせーしまだ子どもだろうけどよ、そんな弱っちいくせになんでこんなとこ来ちまったんだろうなあ」
「どうでもいいだろ。俺らにとっちゃ絶好のカモなんだしよ」
どこか同情したような言葉を発しながら、金髪の男はおれの上着ポケットをまさぐる。何もないと知ると、今度はズボンのポケットに手をつっこむ。びくりと体が震えるが、緑髪の男にしっかりと押さえつけられていてただ怯えを相手に伝えただけだった。
まじ何も入ってねーな、と呟きながら、金髪の男はおれの上着のボタンを外していく。ポケットに入ってないとはいえ、どうやって金目のものを服の中に隠すというんだ。
恐怖心と焦り、そして諦めもあり押し黙ったおれは抵抗らしい抵抗ももうしていない。というより身が竦んでうまく動けないだけなのだが、下手に暴れて逆上されるより何も持っていないことをわかってもらうほうが良いと、情けない自分を慰める。
「おい、こいつまじで何も持ってねーぞ」
「街に出といて、んなわけあるかよ。下着にでも隠してんじゃねえの」
「な、そんなとこに隠すわけない!」
「ほんとかあ? 今まで黙ってたくせに、アタリなんじゃねえのか?」
「もう、わかっただろ! 何も持ってないんだって、」
「それを決めるのは俺らなんだよ。黙っておとなしくしてりゃ乱暴はしねえからよ」
最悪だ。十七年ほどの人生の中で身ぐるみを剥がされる経験をすることになるとは。せめて何か持っていれば、しょうもない物でもいいから、何か持っていれば助かっただろうに。
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