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スマホが振動した。
ぱちり、とすぐに目が開く。
枕の横に置いたスマホの画面をスワイプし、実佳(みか)は目覚ましを止めた。そっと身を起こし、薄暗い中、隣に眠る妹の風佳(ふうか)の様子を伺うと、腹を出しながら大の字になってすやすやと眠っているのが目に入った。
起こさないようにそっとパジャマを引き下ろし、ぷっくりとしたお腹を隠す。足元にくしゃくしゃと固まっている薄い布団を優しくかけてから、実佳はパジャマからジャージの上下に着替えた。
家族が寝静まった後、こそこそと帰宅するサラリーマンのお父さんのように、なるべく音を立てずにドアノブを回してドアを開け、これまた音をさせないように静かにドアを閉めた。階段も音を立てないよう、そろりそろり、と降りていく。
トイレに行ったついでに、玄関の郵便受けから覗く新聞を引き抜き、靴箱の隣の飾り棚スペースに置いた。スリッパ立てから自身のものを引きぬき、台所のドアを開ける。
続きになっているリビングのカーテンを開けると、穏やかな朝の光が差し込んだ。
(今日もいい天気になりそうだ。)
台所に戻り、電気ポットに水を入れ、コンセントを入れる。
さて、と冷蔵庫を開け、ずらりと並んだ保存容器に目を走らせた。背後の棚には、炊きあがった真っ白いご飯を収めた炊飯器が、出番を待っている。
食器棚からお弁当箱をふたつ、取り出す。自分の分と、妹の風佳の分。炊飯器のふたを開け、ご飯を詰める。リビングのテーブルに乗せ、傘のようになっている蠅避けの網をかける。
次は朝ごはんの準備だ。外(と)山(やま)家では、朝ごはんはめいめい好きなものを食べるが、おかずは実佳の用意したものを食べる。今日はシンプルに、ハムに乗せた目玉焼きにしよう。付け合わせは、プチトマトときゅうりの薄切りでいいや。朝から面倒なことはやりたくない。
黙々と台所仕事をしていると、かちゃり、とドアノブの回る音がした。この時間にリビングに来る人は、ひとりしかいない。足音が近づくのを確認し、実佳は先に挨拶をした。
「おはようございます。」
「おはよう。」
美佳の義理の祖母、ゆりえが、メイクもばっちりの状態で台所にやって来た。棚からコーヒーミルを出し、それを胸に抱えつつ、冷凍庫からコーヒー豆を取り出した。
静かなリビングから、ゆりえがごりごりと豆を引く音が響き、台所からはフライパンの立てるじゅうじゅうという音がリビングまで届いていた。ふたりとも、無言のままそれぞれの作業を続ける。
(なんか喋ってくれればいいのに…。)時折、ちらちらと義祖母に目線をやりながら、実佳は黙々とコーヒーの作業を続ける義祖母の様子を伺った。
この家に来て5年にもなろうとするのに、何となくこの義祖母と仲良くなれた気がしない。それは、義理の父親とも同じであったが。
5年前、母親の恵美(えみ)が再婚し、この家に引っ越して来た。義理の父親の清彦(きよひこ)は、母より8つも年下。しかも、デキ婚だった。
清彦はレストランの3代目シェフだった。2代目の父親が早くに他界したため、若くして跡を継いで苦労した、らしい。「3代目が店潰す」と言われる中で、古くからのお客さんも離れずに店を続けている所からして、かなりの腕前だと思われた。
引っ越してきたばかりの頃は、よく清彦の料理を食べにレストランへ行ったものだが、ここ最近は全くと言っていいほど、清彦の料理を味わった覚えがない。それどころか、母親の料理を最後に食べたのはいつだったか、記憶が怪しい。
離婚した後、母親は女手一つで実佳を育ててくれた。それこそ、朝早くから夜遅くまで、バリバリと働き、家計を支えていた。そんな母親の様子を見、実佳はせめてご飯の支度は自分がやろう、と、小学生の頃から台所に立ち続けている。始めは毎食作っていたが、そのうちお弁当も作るようになり、今では週末に作り置きまでやって、家族4人分のご飯を支えていた。それだけではなく、幼い妹の世話もやっている。
恵美は飲食店で働いた経験が無く、しかもデキ婚、しかも年上、ということを異常に気にしていた。
「いい、実佳、よく聞きなさい。」
恵美は実佳の肩を掴み、実佳の目を真っ直ぐに見詰めて言った。
「あたし達は、この家にとっては部外者。いきなりやって来た闖入者と同じなの。」
「ちん…?」
意味が分からず、盛大なはてなマークを浮かべる実佳を無視し、恵美は続けた。
「だから、ここから追い出されないようにしなくちゃダメ。あたし達はとても役に立って、ここにいなくてはならない存在にならなきゃダメなの。そうでなければ、簡単に追い出されてしまうのよ。それじゃいやでしょ?」
ここから追い出されてしまう。それは困る。実佳はぶるぶると頭を振った。
「そう、そうでしょう!だから、実佳も協力してね。あたし達が、必要な人物であることを、皆に分からせるために。大事な人間であることを、証明してやるのよ!」
こくこく、と実佳は首を大きく縦に振った。恵美はそれを見て、満足そうにほほ笑み、言った。
「頼んだわよ、実佳!」と。
それから産まれたばかりの風佳の面倒を見、料理の腕を上げて行った。母親はレストランホールの仕事に集中したいらしく、また、姑・ゆりえの手を煩わせてなるものか、とそれまでレストランホールを切り盛りしていたゆりえを、「お義母さま、ゆっくりと習い事を沢山したいと仰ってたじゃないですか」と、レストランから締め出し、家事も風佳の世話もほとんど実佳にやらせていた。
リビングからコーヒーのいい香りが漂って来た。ハッと気付き、テーブルに出しておいたお弁当箱を取りに行く。ゆりえがそれを少し横にどけて、新聞を読んでいた。
「す、すみません!」と小声で謝りつつ、蠅避けを畳み、脇に抱えながらお弁当を持ちつつ台所に素早く引っ込む。流しに戻り、ほーっと聞こえないように小さくため息をついた。
目玉焼きを各自の皿に乗せ、風佳用の小さなお弁当箱におかずやプチトマトを詰めていた実佳の手がふと止まる。
妹は可愛い。料理も決して嫌いではない。母親が苦労しているのも知っている。でも。
(何だかなあ…。)
この頃、ふっと思うのだ。何でだろう。何であたしは、こんなことをしているのだろう、と。まだ高校生なのに、まるでこれじゃあ…。
彩りよく仕上がったお弁当箱をぼんやり眺めていると、義祖母がテレビのニュースを付けた。今日の天気予報が聞こえてくる。
「あ、やば!」
風佳を起こさなくては。保育園に遅れてしまう。自身も顔を洗い、着替えなくてはいけない。
素早くエプロンを外し、実佳は台所から洗面所へと向かった。
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