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3話 子供
年度末の忙しい時期だった。
どうにも日中では終わらせる事ができなくて、俺は一人残って仕事をしていた。同じ係内で退職してしまった同僚がいて、そいつの分の仕事が俺に回ってきたのだ。どうして俺が、と不満を溜めながら自分と元同僚の仕事をこなしていく。
俺が勤めている会社はいわゆるブラック企業で、こういう事は今回が初めてではない。辞めたかったが、そのことについて真剣に考える余裕すらなく、ズルズルと現在に至っていた。
フロアの照明は、俺がいる場所以外は落とされている。いい加減疲れてきて背伸びをし、時計を確認すると10時を過ぎていた。
そういえば夕食もとっていない、と意識した途端に空腹が襲ってくる。
ーーもういいや
切りが良くなったらあがろう、と再びパソコンに向き直った時、パタパタという音が耳に入る。軽く柔らかい何かが硬いものを叩く音だ。
よく聞いてみると、それは足音のようである。響き方から小柄な人物のもののようだ。
俺以外に残っているやつがいたのか。
こんな時間まで残業しているのは自分だけだと思っていたので、何だか仲間意識が芽生えた。仕事を押し付けてきた上司や、助けようとしてくれない同僚にウンザリしていた気持ちが少し浮上する。
気合を入れ直して、やりかけの仕事に戻った。
しばらくは没頭してキーボードを打っていたのだが、またあの足音が聞こえて手が止まる。パタパタと音を鳴らした後、間を置いて再びパタパタと聞こえてくる。これが何度も繰り返された。
不審に感じて音の方向を辿ると、どうやら廊下から聞こえてくるようだった。大きい音ではないのだが、静かなフロアでその足音はやたら耳につく。
だんだん集中力が途切れるようになり、我慢できなくなった俺は一言文句を言ってやろうと立ち上がった。
廊下の電気も消されていて、目を凝らしても人の姿はない。勢い込んだのが空ぶってしまい、拍子抜けする。
仕方なく戻ろうとしたところで、あの足音がした。どこから聞こえるのか探して、廊下の角を誰かが曲がったのが見えた。ちょうど非常口の近くだったので、照明に人影が浮き上がった。
えっと驚いたのは、その人影が子供のものだったからだ。こんな場所、しかも日付が変わるという時間に、子供がいるはずがない。
見間違えただろうかと首を傾げると、角から子供が顔を覗かせた。
緑色の明かりは幼い男の子の顔を照らす。子供は食い入るように俺を見つめると、再び角の先へ引っ込んでしまった。
激しい動悸を抑えて、後を追いかける。子供に見覚えがある気がした。でも、どこで会ったのか思い出せない。
俺が廊下を曲がるのと子供が資料室に入るのは同時だった。呼び止めながら部屋に入る。室内の電気を点けると、棚と棚の間に子供がうずくまっていた。
「君、どうしたんだ」
転んだのかと慌てて近寄り、肩に手をかけた。すると、間延びした動作で子供は振り返る。子供を間近で見た俺は、やっとそれが誰なのか思い至った。
俺は転げるように資料室から逃げ出すと、取るものもとりあえず、会社から飛び出した。
子供は、幼い頃の俺だった。
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