5話 顔

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5話 顔

 娘がそれを口走るようになったのは、いつからだったろう。  夫の転勤に合わせて私たちも引っ越すことになり、団地のマンションへ住処を変えることになった。  マンションには同世代の子持ちの主婦もいて、ママ友ができるのに時間はかからなかった。覚束ないながらも言葉を話せるようになった娘も、最初こそ新しい家に戸惑っていたがすぐに慣れた。夫も通勤時間が短くなったので帰りが早くなった。  良いこと尽くしで、新生活は順風満帆な出だしだった。  夕食の片付けをしていた時のことだ。  居間で大人しくテレビを見ていた娘が、よたよたと台所へやってきた。  私は手元の流しに視線を落としたまま、向こうで遊んでてねと声をかける。しかし、娘はそんなことはお構いなしに、私のスカートの裾を引っ張った。  仕方なく私は娘を振り返る。 「なあに?」  娘は片手に持っているお絵描き帳を差し出した。余程うまく描けたのか、得意満面の笑みを浮かべている。私は微笑んで差し出されたお絵描き帳を受け取った。  いったい何を描いたのかとお絵描き帳を見た私はギョッとする。  そこには真っ黒い何かが描かれていた。大きい丸と長方形が縦にくっついていて、長方形からは4本の棒が伸びている。  これはおそらく人で棒は手足、長方形は胴体なのだろう。  頭となる丸は見たくないとでもいうように、真っ黒に塗りつぶされていた。黒いクレヨンで円がぐるぐると重ねられて、目も鼻も口も隠れてしまっている。 「これは何?」  私は口元を引きつらせて訊ねた。  すると、娘は笑顔のまま黒い人、と答える。私に見せて満足したのかそそくさと居間に戻っていき、今度はテレビに夢中になった。  私は手に持つお絵描き帳をもう一度見る。幼児が描くには禍々しいそれに、良好だった新生活へ初めて不安を覚えた。  それからも、娘は『黒い人』を口にした。  絵を描くこともあれば、誰もいない部屋に向かって「くろいひと」と指差すこともあった。  その度に私は怯えた。  正体不明の『黒い人』も不気味だったが、それが見えてしまう娘も心配だった。  ある日、熱心にまた『黒い人』を描いている娘に話しかけてみる。 「どうしてこの人の顔を真っ黒にしちゃうの? せっかく描いたお目々と口を塗っちゃうのは、もったいないんじゃないかなあ」  強いて柔らかい口調で問いかけると、娘はきょとんとした。私とお絵描き帳を見比べて首をかしげ、視線を誰もいない和室に向ける。  思わず私も和室を見るが、特に何があるわけでもない。それでもじっと食い入るように見つめる娘に、背筋が寒くなる。 「かけないの」  娘は視線をこちらへ戻した。  どうしてと私が聞くと和室を指差す。 「おかおがないの」
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