ステルスジョーカー

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 ステルスジョーカー

――ポチャン。 蛇口が時間をかけて一粒の水滴を作り、それが水面に落ちるとそんな音を奏でる。普段は聞くことのできない小さな音。しかしこの静寂な空間では嫌でも耳が音を拾う。 薄暗い牢獄。全ての物がモノクロで、色なんてこの世で白と黒しかないのではないかと思わせる。まあこの部屋にあるのはベッドと黒い壁、紙や黒いペン、トイレと鉄製の黒い机。物というものはそれくらいしかない。 この部屋に入れられてから、半年くらいだろうか? それだけこの出られないカゴの中にいるせいで、白と黒以外の色をすっかり忘れてしまった。やることが無いせいで、鉄格子を眺めて一日が終わるなんて事はよくある。 どうしてこんなことになってしまったのか。 原因の始まりは、俺と同じクラスである高校生十二人が、同日に同じ場所で殺された事件があったからだ。よく思い出せないが、俺はその現場の近くで誰かを待っていたはずだ。その間に何者かに殴られ気絶した。警察が現場を捜索したところ、十二人の遺体を発見した。すぐさま現場周辺にいた俺に対し取り調べが始まったということだ。 俺は何も知らないから、知らないと答え続けた。 俺は高校生だ。罪は犯していないし、すぐに解放されるだろうと考えていた。現実は違った。裁判が行われた。 結果は――有罪。 正直意味がわからなかった。この時から、もう世界が真っ白、いや、黒くなったのだろう。罪を犯していなくても、有罪に仕立てたい人に挟まれて、白から黒にひっくり返ったのだ。この判決に、母や伯父、クラスの連中も、無罪を呼びかけ回っていたらしいが無駄だった。完全な冤罪だ。 でもまあ、明日でこの牢獄ともおさらばだ。 そして、この世ともおさらば。 高校生なのに信じられないことに死刑が宣告された。何を言っても無駄だと悟り、この部屋から出られるなら、死んだほうがいいかもなとも思うようになった。真犯人さえ見つかれば俺は釈放されるんだろうが、白を黒にすることは簡単でも、黒を白にすることは難しい。 いつ最期になるかわからない飯が届けられた。白のトレーに、パンや、ビーフシチューといった、小学校の給食で出されるようなものばかりだ。 当然、様々な色が食品に付いているはずだが、ビーフシチューもパンも全部、薄暗いこの部屋では黒に見える。 ――ビーフシチューは元々黒だっけ? 食事を終え、布団に身を隠すように潜り、今日も眠った。 朝か夜か分からないが、目が覚めた。 顔を洗い、命のカウントダウンを意識しなくても数えてしまう。一秒、二秒……と、ものすごく時間が長く感じる。一日は八万六千四百秒、一秒がこんなに長いのに、八万倍以上も一日はある。 ――もっといろんな経験したかったな。 鏡の中の俺は泣いているように見えた。しかし、暗くてよくわからない。もう一度顔を洗い直した。 半年使ったこの部屋を掃除することにした。床を指でなぞると、やけに埃っぽい。掃除道具すらないのを忘れていた。本当に何も無い事に呆れた。 俺もここに来る前は 「お前ん家や近くに、なんかある?」 「いや、なんも無いよ。田舎だからね」 などと言っていたが、ここに来ると何でもあった事に気づく。 ここは完全に鳥かご、虫かご、養鶏所と言った類の、死ぬために用意された場所だ。もう一度寝てしまおうと思った時、何もないところで転び、頭を強くぶつけた。悔しさと恥ずかしさが入り混じったような感情で、じわじわと痛みが広がった。そんな折、ベッドの下に、何かあることに気がついた。 ――トランプ? ベッドは固定されているので、顔を地面に摺り寄せ、必死で手を伸ばした。やっと中指の先端が触れる位置にあるトランプを、顔を真っ赤に染めながら何度か繰り返すと、ようやく引き寄せることができた。 白と黒でデザインされていて、この部屋にぴったりのデザインだった。光に当てたとしても、このトランプは白と黒以外の色彩はきっと使われていないだろう。 最初のカードはジョーカーだった。仮面を被り今にも踊りだしそうだった。少し不気味な笑顔が特徴の陽気そうな絵柄だった。先の丸っこいHBの鉛筆で、同じジョーカーを書いてみた。ここに来て一番楽しい時間だったように思える。陽気な顔が羨ましかった。今にも泣きそうな自分の顔と比べてしまう。しかし、俺はその顔を否定する。泣いている自分を見てしまったら、諦めず戦わなかった自分に後悔してしまう。最期に後悔なんかしたくない。俺は俺の人生を生きたのだ。だが、もしかしたら、最初から後悔していたのかもしれない。仕方ないとか、慣れたと言う言葉で誤魔化していただけなのかもしれない。涙を水で洗い隠し、無かった事にしている。俺はただ、辛いことを隠し、楽をしていた。いや、違う。おかしなことを考えるのは止めよう。 俺は俺の人生を生きたのだ。 「…………」 静寂の中、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。鉄の階段が響き、まるで踏まれて泣いているように聞こえる。それもそのはず、死の使いが来たのだから。 「起きてるな! 外にでろ」 死の使いは、低音で電気的な雑音が混じったような聞き取り難い声で言った。本当にそう言ったのかは分からないが、聞き返すような真似はしない。既に鍵が開けられたから。 法律では死刑が確定してから六カ月以内に死刑を執行するように定められているらしい。でも実際には五年経っても執行されない場合が多いそうだ。人を裁くという事はそれ相応の準備が必要ということ。俺の場合は特別、いや正しく六カ月以内に執行される。聞かされている事実と体験している真実とでは大きく相違があるのだ。 めんどうくさそうに俺を外に出すと、死神の所まで一直線で導いた。俺の足取りは重く、何回も急かされた。コンクリートを裸足で歩くと死んでいるように冷たかった。 ここに連れてこられるまで、死について考えたこともない。それほどきっと、俺にとって縁遠いものだったのかもしれない。簡単とか難しいとか、そんな次元の話ではない。 だが、死ぬということは難しい事ではないようだ。 何事かを色々言われ、黙々と聞き流すと、歩くように指示され、進んでいくと、急に視界がより暗くなり、そのまま首を吊っているようだった。そんな感覚で終わっていた。
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