7人が本棚に入れています
本棚に追加
/31ページ
のっぺらぼうの噺
東京を江戸と申した時分のお話し。
ある日の江戸の夜。
囲碁仲間との対局に、つい熱が入り過ぎてしまったために帰路を急いでいる男がいた。
仮に美伊太郎としておこう。
美伊太郎はとにもかくにもせっかちであり、更に興奮すると周りが見えなくなる男であった。そんな彼を周りの友達連中は『いのしし』と呼び揶揄っていた。
慣れた帰り道。提灯もいらぬほど月の光る晩の風に、柳の枝が気持ちよさそうにそよいでいた。
川を渡る為に橋に向かって曲がったところで、美伊太郎の耳に誰かのすすり泣く声が届いた。
辺りを見回してみると、ちょうど今、自分が来た道に生えている柳の木の根元に、蹲って泣く女の姿があった。
あんな女がいたっけかな。
時間も時間であったので、美伊太郎は思い切って女に声をかけてみた。
「実は…失くしてしまったんです」
「財布ですか」
女は首を横に振った。
「それなら小間物とか、かんざしですか」
女はまた首を横に振った。
「じれったいな。何を失くしたんだい?」
「実は」
そういって振り向いた女の顔を見て美伊太郎は驚いた。
例えるのであれば剥いたばかりのゆで卵。目も鼻も口も何もない。
世にいうところの『のっぺらぼう』であったのだ。
◇
美伊太郎はギャっと悲鳴を上げると一目散にその場から逃げ出した。
何度も躓き、手が足なのか足が手なのか、そんな事もわからなくなってしまっている。
やがて、向かう先ににぽうっと蕎麦屋の行燈の火が灯っていることに気が付くと、藁をも掴む思いで駆け込んだ。
「旦那、どうしたんだい。そんなに慌てて」
「いいいいい今、そこここでのっぺら、ぺらぺらぺら」
「ぺらぺら? まま、これでも飲んで落ち着いて」
美伊太郎は差し出された一杯の水を飲んで落ち着くと、今起こったことの仔細を蕎麦屋に言って聞かせた。
「それはそれは…大層驚いたでしょう」
「そりゃあもう、俺は生涯であれだけ驚くことはもうないというくらい驚いたよ」
蕎麦屋の男は背中で熱心に美伊太郎の話に聞き入っていたが、一向にこちらに顔を向ける様子がなかった。
「ところでね、旦那」
「どうした」
「いえ、旦那が見たそののっぺらぼうっていうのは……こんな顔じゃありませんでしたか」
そう言ってようやく顔を見せた店主の顔は、正しくのっぺらぼうであった。
美伊太郎は目を丸くして答えた。
「そうそう、そんな顔だったよ」
「…え?」
まさかの答えにのっぺらぼう店主は驚きの表情を浮かべた。
「そこまで似てるって事は、あののっぺら女の親戚か何かだろう。ああいう人を驚かす真似は止めるよう言い聞かせておけ」
「へえ、きつく言っておきます」
しどろもどろののっぺらぼうを尻目に美伊太郎は、散々文句を言って帰っていった。
美伊太郎がいなくなると、屋台の外で様子を見てた女の方ののっぺらぼうがすぐに寄ってきた。
「お兄ちゃん。一体どうしたのよ」
「おお、妹よ。無事だったか」
「そんなことより、さっきの男。どうしたのさ」
「わからないよ。驚かそうと思っていたのにあべこべに驚かされちまった」
のっぺらぼうの蕎麦屋は苦悶の表情を浮かべながら、深くうな垂れてしまった。
「そんなに落ち込まないでよ、お兄ちゃん。今日はもうウチに帰りましょう。隣町に行ったおとっつぁんとおっかさんも返ってくるころだろうからさ」
「いや、俺はウチには帰らない」
「どうしてさ」
「どうしてって…人を驚かす妖怪である俺が人間に驚かされるなんて情けなくて…このままじゃ、立派なのっぺらぼうになるようにと大事に育てくれたおとっつぁんとおっかさんに、合わせる顔がない」
最初のコメントを投稿しよう!